大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の25回目では、ついに源頼朝が亡くなった。その後継者は嫡男の頼家なのだが、それは既定路線だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝の上洛

 建久6年(1195)、源頼朝は妻の政子、娘の大姫、嫡男の頼家とともに上洛した。頼朝は六波羅邸に丹後局(後白河法皇の寵姫)を招き、政子、大姫を面会させた。頼朝が政子らを丹後局に引き合わせたのは、後白河の死後、丹後局が朝廷で大きな力を持っていたからだった。

 上洛に際し、頼朝は丹後局に対して、砂金300両などを贈った。一方、頼朝が頼りにしていた九条兼実に対しては、わずか馬2頭だった。その差は歴然としており、兼実の心中は穏やかでなかったに違いない。

 頼朝が丹後局に急接近した理由は、大姫の婚姻を仲介してもらうためだった。同時に、頼家を後継者と考えていた頼朝は、朝廷に2度も参内させた。面識を得るためである。

 ところが、頼朝は頼家をそのまま後継者に据えることを躊躇した節がある。というのも、前年に征夷大将軍を辞しており、頼朝の在任期間はわずか2年にすぎなかった。将軍位を空けたままだったのだから、頼朝が頼家を後継者と考えていたのか疑問が残る。

■2つの選択肢

 頼朝が丹後局そして朝廷に急接近したのは、自らの後継者問題も絡んでいた。頼朝は、次の2つの構想を心中に抱いていたと指摘されている。

①大姫を入内させ、後鳥羽天皇との間に誕生した皇子を頼朝の後継者に据えて鎌倉に招き、頼家にこれを補佐させる案。

②後鳥羽の兄弟に大姫を輿入れさせ、いずれかを鎌倉に迎えて頼朝の後継者とし、頼家に補佐させる案。

 頼朝は打倒平家の兵を挙げたとき、以仁王を推戴しようとした。これにより、東国における確固たる支配権を築こうと考えたのである。①②はともに、かつての構想に基づくものだった。

 ところが、①に関しては、すでに土御門(源)通親と兼実が入内をめぐって争っており、頼朝と大姫に出る幕はなかった。したがって、①の実現は極めて困難だったと考えられる。

 ②については、後鳥羽の兄弟として、守貞親王(のちの後高倉天皇)と惟明親王という有力な候補が存在した。頼朝は2人のうちのどちらかに、大姫を輿入れさせたかったに違いない。

■まとめ

 ところが、頼朝の目論見は見事に崩れ去った。通親の娘の在子は入内し、後鳥羽との間に為仁を生んだ。このことによって、大姫の入内は極めて厳しくなった。

 建久7年(1196)、通親は兼実を関白、氏長者の地位から追い、失脚させることに成功した。しかも翌年には大姫が亡くなり、次女の乙姫を入内させようとしたが失敗した。

 結局、頼朝は自らの構想を実現することなく、建久10年(1199)1月に無念の思いを抱きながら最期を迎えたのである。