「鎌倉殿の13人」で登場!源頼政の最後の戦いを追う
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第三話で登場した源頼政。以仁王を奉じて打倒平家に立ち上がったのだが、その挙兵後の奮戦と足跡を紹介したい。
源頼光の系統の摂津源氏の嫡流に生まれた頼政は、若き日は武勇が評判の武者であり、宮中における「鵺退治」の活躍で名声を得る。「保元の乱」では後白河法皇側について勝者となったが、この戦いにおいて、源氏は源為義が嫡男の義朝によって斬首されるなど勢力を抑制される。
さらに続いておこった「平治の乱」では、後白河上皇を守る立場から、平清盛のもとで戦いに臨み、戦後は源義朝をはじめ大半の源氏が姿を消す中で、源氏の代表として平家政権下で生き延びた。
平清盛の信頼も厚い頼政であったが、その後は下積み生活が長きに渡り、従四位のまま長く据え置かれていた時期があった。頼政にとって、上流貴族の入口であった次の位の従三位への昇進願望は大変強いものがあり、歌人としても名高かったことから、下記のような歌を残した。
「のぼるべき たよりなき身は 木の下に 椎(四位)をひろひて 世をわたるかな」
これを聞いた清盛は、頼政の昇進を失念していたことに気付き、すぐに従三位に昇格させたと伝わる。この時頼政はすでに74歳となっており、時の貴族の権威者である九条兼実も、日記『玉葉』の中で、この頼政の昇進の知らせを「第一之珍事也」と記している。
以仁王の打倒平家の画策に賛同した頼政は、一族を率いて馳せ参じ、まず三井寺に拠って延暦寺らとの共闘を図る。一説には、嫡男の仲綱と平清盛の息子である宗盛との馬を巡る確執があったとも伝わる。
しかし平家の素早い圧力によって、頼みの延暦寺は中立の立場をとったため、戦局打開のために、援助を伝えてきた奈良の興福寺に合流すべく都を後にする。
一方この動きを敏感に察知した平家は、平知盛、平重衡、平忠度ら28000騎の大軍を派遣し、宇治方面にて頼政一行に追いついた。挙兵後はまともに寝ていない疲労と、慣れない行軍に疲れ切った以仁王は、途中で実に6度も落馬したと伝わる。
頼政は、平等院にて以仁王を休ませて陣容を立て直し、宇治橋の橋桁を落として防戦する。平家軍は、勢い込んで我先にと進むうちに、先陣200騎あまりが川に落とされ、溺れてしまった。その後、矢合わせがはじまり、頼政とともに平家に立ち向かった渡辺党、三井寺の僧兵、五智院の但馬(矢切りの但馬)、筒井浄妙や一来法師(祇園祭の浄妙山の由来)らの獅子奮迅の活躍もあったが、最終的には坂東出身の足利又太郎忠綱の提案で、馬筏を組んで宇治川を平家の大軍が渡る。こうなると衆寡敵せず、一気に平家軍が平等院に迫ったため、頼政は以仁王を奈良へと逃がした。
以仁王の逃げる時間を一刻でも稼ぎたい頼政であったが、左ひざに矢傷を負い、平等院の内側に退去する。次男の兼綱は、迫りくる敵から頼政を逃がすべく、敵に討ち入っては引き、討ち入っては引くなど死に物狂いの奮戦をした後に、ついに首を取られた。長男の仲綱も散々戦い抜いた末に全身に傷を負い、平等院の観音堂にて自害した。
頼政はすべて見届けると、家臣の渡辺長七唱に介錯を命じて「扇の芝」にて自刃。亨年77歳であった。
その辞世の句は
「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」
と詠んだ。自らを埋もれ木と例え、花の咲くこともなかったと嘆いた歌だが、この頼政の無念の思いとは裏腹に、この一連の動きの中で、以仁王が発した令旨が全国各地の源氏に届き、木曽義仲や源頼朝が相次いで挙兵し、平家を滅亡へと追い込んでいった。そのため源頼朝とともに、頼政は源氏の時代を切り開いた最も重要な人物として後世評価されている。
最後に、江戸川柳に登場する源平の人物で最も多いのは、一般的に知名度の高い源義経でも平清盛でもなく源頼政であることを付け加えておきたい。