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【深掘り「鎌倉殿の13人」】後継者を決めずに亡くなった源頼朝の無念

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝の墓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」26回目では、とうとう源頼朝が亡くなってしまった。後継者を決めずに亡くなった頼朝の無念について、詳しく掘り下げてみよう。

■頼朝は糖尿病で死んだ?

 建久10年(1199)1月13日、源頼朝が亡くなった。享年53。頼朝の死因については、いくつかの記録が残っているもの、それぞれの記述内容は異なっている。

 『猪隈関白記』建久10年(1199)1月20日条には、1月13日に頼朝が亡くなったことを記している。藤原定家の日記『明月記』も同様であるが、「頓病」が死因だったと書いている。「頓病」とは脳出血、心臓発作などの病気のことで、突然死だったと考えられる。

 定家は頼朝の死を「朝家の大事」と記しており、それは今後の朝廷にとっても影響を及ぼす意味を含んでいた。また、頼朝は亡くなる前に、後継者を定めていたわけではなかった。

 近衛家実の日記『猪隈関白記』建久10年(1199)1月18日条によると、頼朝は「飲水の重病」によって出家したと書いている。「飲水の重病」とは、どのような病気だったのだろうか。

 飲水病とは、過度の飲食、飲酒が原因となり、喉が渇いて尿が出にくくなる病気といわれている。一説によると、糖尿病と言われている。いずれにしても、ドラマのように落馬が原因とは記していない。

 頼朝は死の直前に出家したが、これは「臨終出家」である。出家して僧侶になるのではなく、浄土に行こうとする考え方である。当時の風習でもあった。

■謎多き『吾妻鏡』の記述

 『吾妻鏡』には頼朝が亡くなった日の記述がなく、建暦2年(1212)2月28日に頼朝の死を記録していた。なぜ、死後13年を経てから記録したのか、理由は不明である。

 頼朝が懇意にしていた九条兼実も、自身の日記『玉葉』に頼朝の死を記録していない。何らかの理由があったのか、今となってはわからないのが実情である。

 建久9年(1198)12月27日、稲毛重成が亡妻(北条政子の妹)の追福のため、相模橋を新造した。頼朝は橋供養に参列したが、その帰りに馬から落ち、打ち所が悪かったのが原因で亡くなったという。

 同年10月11日条によると、頼朝は死の前年の12月から、病気がちだったと書かれている。現在、頼朝は「飲水の重病」で体調が悪かったうえに、無理をして馬で出掛け、意識がもうろうとして落馬したのだろうといわれている。諸史料の記述をミックスした説だ。

■頼朝の無念

 頼朝の死は残されたものだけでなく、本人が一番悔しかったに違いない。頼朝が後継者問題で頭を痛めていたのは、こちらのとおりである。幕府の体制を永続させるというよりも、少なくとも子孫の繁栄を願っていたのは事実である。

 その方針を決定し、実行に移すことなく頼朝は亡くなったのだから、その無念の思いは察するに余りある。頼朝の死後、後継者となった頼家は、文字どおりイバラの道を歩むことになった。その点は、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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