【深掘り「鎌倉殿の13人」】梶原景時は一幡を連れて、鎌倉から逃走しようとしたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の28回目では、梶原景時は一幡を連れて、鎌倉から逃走しようとした場面があった。この話が事実なのか、詳しく掘り下げてみよう。
なお、ドラマでは景時が一幡と鎌倉から逃走しようとしていたが、実際は後述するとおり千幡(頼家でのちの弟・実朝)を擁立しようとしたのが正しい。
■梶原景時の失脚
正治元年(1199)10月、梶原景時は結城朝光を讒言で陥れようとしたが、御家人らの猛烈な反発を食らい、失脚した。失脚した景時は、一族を率いて相模国へと下向した。
その直後、鎌倉にあった景時の家は破壊され、永福寺に寄進されたという。こうして景時の没落は決定的になり、幕府での居場所を失ってしまったのである。
ところで、大河ドラマでは、窮地に陥った景時が比企能員の屋敷を襲撃し、一幡(頼家の子)を人質に取り、逃走しようとしていた。しかし、結局は説得に応じ、景時は引き下がった。
実際に景時が擁立しようとしたのは千幡であるが、これは根拠のない話ではない。
■『玉葉』の記述
正治2年(1200)1月、九条兼実は自身の日記『玉葉』のなかで、関東兵乱の噂を書き留めている。以下、その概要を解説することにしよう。
関東兵乱とは、景時の謀反である。景時はほかの武士から妬まれ、窮地に陥った。妬まれたというのは、これまでの景時の数々の讒言が原因であり、御家人から猛反発を食らったことだろう。
そこで、景時は頼家の弟の千幡を主君とし、頼家を討とうとしたという。この事実を知った御家人らは、景時を召喚し詰問した。たちまち景時の悪事は露見し、鎌倉から追放されたというのである。
この一事が朝光の件と関係しているのか不明であるが(朝光の名は出てこない)、京都には景時が千幡を擁立して決起したので、鎌倉から追放されたと京都に伝わったようである。
■まとめ
景時が朝光を讒言した件については、『吾妻鏡』にしか書かれていない。『北条九代記』、『保暦間記』には、景時が連判によって鎌倉から追放されたと書かれているが、朝光の一件に関する記述はない。
『保暦間記』には、興味深い記述がある。景時の讒言は酷かったが、頼朝のときは寵愛されていたので、うまく措置していたので何の咎めもなかったという。
しかし、頼家は若く思慮がなかったので、損する御家人が多かった。そこで、御家人は連判して訴訟を提起し、景時を追放したという。朝光の名は出てこないが、それがきっかけだった可能性はある。
『玉葉』の記述(景時の謀反)は、単なる風聞にすぎないだろう。というのも、実際に景時が千幡を擁立して決起すれば、鎌倉追放されるだけでは済まなかったはずである。兼実は正確な情報を得られなかった可能性が高い。