長年にわたって人々を苦しめてきた、脚気と人々の戦い
脚気はビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1の欠乏によって心不全などを引き起こします。
現代でこそほとんど見かけない病気となりましたが、かつてはかなり発生しており、国も手を焼いていました。
この記事では明治時代までの脚気の歴史について紹介していきます。
長年にわたって人々を苦しめてきた脚気
古代より、日本には「脚気」と思しき病が潜んでいました。
『日本書紀』や『続日本紀』には、脚の不調を訴える天皇や貴族の記録が残っています。
そして平安の世に白米食が上層階級に普及するや、脚気は彼らに猛威を振るい始めたのです。
清らかな白米が実は危うき魔性を秘めていたとは、なんとも皮肉な話であります。
時代は流れて江戸時代。
白米は江戸の町人や武士にとっても日常の糧となり、「江戸煩(えどわずらい)」の名で脚気は流行の病となるのです。
特に享保年間、江戸を離れ箱根山を越えると脚気が治る、という不思議な現象が報告されました。
「江戸にいるから煩うのだ」という説は広がり、誰もが白米と脚気の関係に気づき始めます。
しかし、白米をやめられないのが江戸っ子の粋と見えるのです。
『守貞漫稿』が記す江戸庶民の食事事情も、白米への偏愛を証言します。
朝は飯に味噌汁、昼は冷飯に野菜、夜はお茶漬けに香の物。
木綿問屋で働く奉公人ともなると、冷飯に味噌汁のみ、精進日には香の物だけというさみしい食卓。
白米が豊かな恵みである一方で、命を蝕む毒にもなり得るという逆説をはらんでいたのです。
そして、脚気に対する江戸の治療法も、医師たちが食事制限を重んじるなど、時に過激なものでありました。
赤小豆ご飯や麦飯が薬代わりに奨励され、「脚気には粗食」が江戸っ子の知恵として定着していきます。
その風潮は、やがて明治にまで受け継がれました。
明治時代、日本の都市部で脚気は再び猛威を振るい、各地の大都市から港町まで広がります。
上層階級よりもむしろ中・下層の人々が犠牲になり、1900年には死者数が6500人を超え、やがて1万人、3万人に達するとも推測されました。
西洋から渡来した医師たちは脚気を「東洋の風土病」とみなし、生活環境が劣悪だから発生するものと断じたのです。
脚気への無理解から、日本の古来の漢方医学を無視する西洋医学が浸透する一方で、治療は迷走しました。
脚気患者を前に戸惑う異国の医師たちが、結局は漢方の書を頼りにするという様相もあり、時代は新旧の知恵を入り混ぜた混沌としたものとなったのです。
真っ二つに割れた脚気の原因
明治時代、脚気の原因については様々な説が飛び交ったが、いずれも決定打に欠けていました。
まず遠田澄庵という漢方医は、脚気の元凶は白米にありとする「米食原因説」を主張したのです。
白米の陰謀説です。
一方、欧米から来た医師たちは「伝染病説」に傾き、脚気菌なるものを探し始めました。
彼らは「脚気は都市に多く、寄宿舎や監獄で流行する」「夏に悪化し冬に鎮まる」との特徴から、まるで目に見えぬ病原体が人々を襲うかのように考えたのです。
さらに、三浦守治は青魚中毒、榊順次郎はカビ毒による「中毒説」を唱えました。
脚気の原因を毒に求めた一派です。
また、栄養の不足こそが真の原因だとする「栄養障害説」も細々と存在したものの、こちらは日の目を見ることは少なかったのです。
こうして日本は、西洋医学と漢方が入り交じる迷宮で、脚気の正体を見極めるための、まるでおかしな探偵小説のような錯綜した試行錯誤の時代を生きていました。
参考文献
山下政三(1983)『脚気の歴史 ビタミン発見以前』東京大学出版会
関連記事