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毒殺が疑われる3人の武将。本当に毒殺だったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
加藤清正。(写真:イメージマート)

 武将の死因は、合戦での討ち死に、病死など多岐にわたる。しかし、中には毒殺が疑われる武将がいるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎足利直義(1307~1352)

 直義は尊氏の弟で、室町幕府の開幕に大いに貢献した。しかし、2人はやがて対立し(観応の擾乱)、直義は観応3年(1352)に鎌倉の大林寺で急死した。『太平記』には、黄疸が死因であると書いているが、同時に毒殺されたとの噂も書き留めている。

 直義に用いられた毒は「鴆毒」といい、鴆という空想上の鳥の羽から得られる猛毒だったという。のちに「鴆毒」は、猛毒を意味するようになった。直義毒殺説は文学作品の『太平記』に書かれており、否定する研究者もいれば、支持する研究する研究者もいるのが現状だ。

◎蒲生氏郷(1556~1595)

 氏郷は織田信長、豊臣秀吉に仕え、のちに会津に約91万石を領することになった。しかし、文禄の役に伴い、名護屋城に出陣したが、体調を崩した。心配した秀吉は医師を遣わしたが、その甲斐なく文禄4年(1595)に氏郷は伏見の屋敷で病没した。

 一説によると、秀吉や石田三成が氏郷を毒殺したという。しかし、それらの根拠は『氏郷記』などの後世に成った編纂物に書かれたもので、信が置けないという。氏郷を診察した曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、詳しく病状や経過が記されているので、毒殺の可能性は否定されている。

◎加藤清正(1562~1611)

 清正は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、のちに肥後に52万石を領することになった。慶長16年(1611)3月、清正は二条城での豊臣秀頼と家康との面会を取り持ったが、帰国途中に発病し、同年6月に亡くなった。その死因については諸説あり、毒殺説も取りざたされた。

 家康は秀頼と会見の際、毒饅頭で秀頼を暗殺しようとした。しかし、清正は家康の目論みを阻止すべく、自ら進んで饅頭を食べ、命を投げ出して秀頼を救ったという。秀頼を救った美談だが、あまりに荒唐無稽な話であり、今となっては顧みられない説である。

◎まとめ

 武将の毒殺については、管見の限り一次史料に書かれておらず、二次史料に書かれているものばかりである。中には荒唐無稽すぎて信が置けないものもあり、いまだに論争中のケースもある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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