日清戦争でも流行した、脚気と人々の戦い
脚気はビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1の欠乏によって心不全などを引き起こします。
現代でこそほとんど見かけない病気となりましたが、かつてはかなり発生しており、国も手を焼いていました。
この記事では日清戦争での脚気との戦いに紹介していきます。
日清戦争での脚気での流行
日清戦争での陸軍兵士は、戦闘による死者よりも脚気による犠牲者がはるかに多かったです。
陸軍の脚気患者数は41,000人以上、脚気死者数は4,000人を超え、台湾では10人に1人が命を落とすという異常な事態でした。
この惨状の一因には、戦時兵食として制定された白米中心の食事があったのです。
兵士たちには、1日6合の精米が支給されたものの、副食は乏しく、特に戦地では供給もままならず、食事が偏りました。
陸軍の衛生責任者であった石黒忠悳は、「白米さえあれば栄養は足りる」との信念を持ち、副食を軽視したのです。
その結果、戦地の兵士たちは白米ばかりを食べ、栄養バランスが崩れ脚気が猛威を振るいました。
遼東半島で脚気が発生した際、軍医部長の土岐頼徳は麦飯導入を進言したものの、物資の不足と兵站の混乱で実現しなかったのです。
戦後の台湾平定(乙未戦争)でも事態はさらに悪化しました。
台湾の高温と湿度が脚気の流行に拍車をかけたものの、石黒は依然として白米中心の食事に固執し、副食改善の要望を聞き入れなかったのです。
これに対し、台湾に赴任した土岐は脚気の急増を目の当たりにし、石黒の意向を無視して麦飯の支給を決行します。
両者の意見は真っ向から対立することとなるのです。
石黒は後に「米食が脚気の原因であると証明されていない以上、兵食を変更することはできない」と公表し、学説の確証がないまま食事を改めることに否定的な立場を示しました。
だが、彼のこの頑固さが結果的に多くの兵士を苦しめたと批判され、陸軍内での脚気対策の遅れが明確に浮き彫りとなったのです。
参考文献
山下政三(1983)『脚気の歴史 ビタミン発見以前』東京大学出版会
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