日露戦争でも流行した、脚気と人々の戦い
脚気はビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1の欠乏によって心不全などを引き起こします。
現代でこそほとんど見かけない病気となりましたが、かつてはかなり発生しており、国も手を焼いていました。
この記事では日露戦争での脚気との戦いに紹介していきます。
日露戦争での脚気の流行
1900年、義和団の乱が勃発し、日本陸軍は第5師団を派遣します。
北京周辺での局地戦に従事した兵士たちには、脚気や赤痢、マラリアといった病が蔓延し、特に脚気患者が最多の2,351人にのぼりました。
第5師団の軍医部長であった前田政四郎は、日本米を食べる部隊で脚気が発生し、中国米(精白度の低い米)では抑えられたと報告したものの、兵士たちには日本米が支給され続けたのです。
小池正直が陸軍医務局長に就任した時期、台湾平定戦での麦飯の実績も無視され、義和団の乱では麦が送られませんでした。
小池の指導に従い、兵士たちは脚気の発症リスクを抱えながらも白米食を続けさせられたのです。
その後の1904年、日露戦争が始まると、脚気問題はさらに深刻化します。
戦地での脚気患者数は約25万人、脚気による死亡者は2万7,000人以上に達し、これは戦死者数の半分に匹敵するのです。
小池は戦時兵食に白米6合を基本とし、部隊での麦飯導入提案も「麦は運搬や保存が難しい」と却下されました。
また、白米が兵士の士気を高める「ご馳走」であるとの心理的理由も無視できず、貧しい麦飯を死地で食べさせることを躊躇する陸軍上層部の判断も影響したのです。
さらに、大麦は戦時馬糧としても重要であり、日露戦争中には軍馬の数が平時の3万頭から17万頭に増加します。
大麦の需要が膨れ上がり、兵士に食べさせる麦飯はさらに不足しました。
糧秣廠は農民からの供出で大麦を確保しようとするも、安定供給は難しく、陸軍は必要な米を輸入し続けたのです。
脚気は、気温上昇とともに急増し、1904年8月には一部で麦飯が給与されたものの、軍全体への導入は遅れました。
翌年3月、陸軍大臣寺内正毅の指示で「米4合・麦2合」が支給され、脚気患者数は減少に転じたものの、依然として栄養バランスに難があり、脚気の根絶には至らなかったのです。
最終的に、陸軍医務局長が森林太郎(作家の森鴎外)に交代すると、陸軍の兵食規則は正式に改訂され、米と麦を主食とする兵食が採用されます。
時すでに遅かったものの、長年にわたる脚気の惨害にようやく終止符が打たれる契機となったのです。
参考文献
山下政三(1983)『脚気の歴史 ビタミン発見以前』東京大学出版会
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