帝国海軍も手を焼いた、脚気と人々の戦い
脚気はビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1の欠乏によって心不全などを引き起こします。
現代でこそほとんど見かけない病気となりましたが、かつてはかなり発生しており、国も手を焼いていました。
この記事では脚気と日本海軍の取り組みについて紹介していきます。
脚気VS帝国海軍
大日本帝国海軍の脚気対策を成功させたのは、軍医・高木兼寛でした。
高木は、まず海軍の脚気患者が多いのは兵卒や囚人で、士官には少ないことに注目し、その違いを探るうちに「食事内容」が要因と考えたのです。
つまり、脚気患者が多い艦では炭水化物に偏り、逆に脚気が少ない艦ではタンパク質を多く含む食事が取られていたのです。
この発見から、高木はタンパク質の増加が脚気予防になると判断し、兵食改革に着手しました。
1882年、まずは試験的に東京海軍病院で西洋風の食事を導入します。
しかし現場は難色を示し、高木は伊藤博文の協力を得て天皇に奏上、ようやく改革が動き出しました。
1884年、下士官以下に規定食が支給され、洋食が導入されるや、練習艦「筑波」は新兵食で287日間の航海に挑んだのです。
結果は上々で、脚気患者はわずか16名、死者ゼロ。
これで高木の理論は立証され、日本の疫学研究の先駆けとなりました。
しかし、洋食が苦手な兵士も多く、「腹が空いてもパンは食わない」という声が続出します。
そこで高木はパンの代わりに麦飯の採用を決め、以降脚気患者は激減したのです。
1885年には新患者数がわずか41人、発生率も1%を切り、見事に脚気の克服へと導かれたのです。
1885年、高木兼寛は「脚気はタンパク質不足による」という自説を発表し、麦飯を推奨していきました。
海軍での実績に基づくこの主張により、脚気対策のための兵食改革は進められたものの、学界の反応は冷淡そのものだったのです。
東京帝国大学からは激しい批判が相次ぎ、助手の村田豊作は「麦ではなく栄養価の高い糠を使えばよい」と非難、教授の大沢謙二は「麦のタンパク質は吸収効率が低い」と実験で証明し、高木説を机上の空論と片付けました。
また、「食事が不良なら他の病気も増えるはずなのに、なぜ脚気だけなのか?」との根本的な疑問も投げかけられたのです。
学会で孤立するなか、高木は反証するのではなく兵食改革の成果を繰り返し公表して沈黙します。
高木は後年、「誰も賛同せず、全て反論ばかりだった」と述懐しているのです。
一方、脚気の根絶という偉業を成し遂げたかに見えた海軍で、1915年から再び脚気が増加します。
新任の医務局長、本多忠夫が東京帝国大学出身で、かつてのイギリス医学系ではなく、薩摩閥の高木路線とは異なる学派だったことも影響したとされるのです。
脚気患者はわずか数年で急増し、日露戦争では抑えられていた発生率も、統計によれば実際には軽症患者を除外していた可能性があると推測されました。
脚気の再流行は、兵食改定による麦飯の割合低下、そしてビタミンの少ない缶詰や乾燥野菜中心の航海食が原因と見られています。
長期航海では新鮮な食品を確保するのが難しく、貯蔵可能な缶詰食が主食となり、ビタミン不足が拍車をかけました。
1921年、海軍は「兵食研究調査委員会」を設立し、兵食の改善に取り組みました。研究の結果、胚芽米の導入が推奨され、1933年には正式に採用されたのです。
しかし胚芽米は腐りやすく、夏場には貯蔵が困難で供給に限りがありました。
脚気患者数は、1930年代から1940年代初頭に至るまで1,000人以上の水準で推移し、太平洋戦争開戦時には3,000人を超えるという深刻な状態となったのです。
参考文献
山下政三(1983)『脚気の歴史 ビタミン発見以前』東京大学出版会
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