遂に国が立ち上がった、脚気と人々の戦い
脚気はビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1の欠乏によって心不全などを引き起こします。
現代でこそほとんど見かけない病気となりましたが、かつてはかなり発生しており、国も手を焼いていました。
この記事では国が作った脚気臨調について紹介していきます。
脚気臨調の誕生
日露戦争中、陸軍内で脚気が蔓延したことは周知の事実でした。
兵士たちは脚気によって大量の死者を出し、戦場での衛生対策が急務とされる中、医師や学者からは脚気の原因究明を求める声が高まっていったのです。
こうした背景のもと、小説家として森鴎外の名で知られる森林太郎が、陸軍医務局長として脚気問題に取り組むことになります。
まず、1905年には東京帝国大学の教授・山極勝三郎が「国家事業として脚気調査会の設立」を提案し、同年2月には代議士・山根正次が議会に脚気病調査会設立案を提出、議会でも賛成多数で可決されました。
だが、日露戦争の莫大な戦費による財政難のため、この案は実現しなかったのです。
その後も脚気問題を取り上げ続けたのが『医海時報』であり、1907年には「脚気病調査会の組織と方法」についての懸賞論文を募り、脚気に関する研究機運を一層高めました。
そしてついに1908年、森林太郎の発案と陸軍大臣・寺内正毅の支援を受け、国家機関「臨時脚気病調査会」が設立されることとなったのです。
調査会は会長の森を中心に、東京帝大や伝染病研究所、海軍からの医師たちなど多様なメンバー21名が参加し、脚気の原因解明と予防策の研究が開始されました。
設立直後、調査会は訪日中の細菌学者ロベルト・コッホを訪ね、助言を求めたのです。
コッホは「東南アジアでのベリベリと日本の脚気を比較すると良い」という提案をし、これを受けて調査会は直ちに東南アジアでの現地調査を決行します。
陸軍軍医の都築甚之助、東京帝大の宮本叔、伝染病研究所の柴山五郎作らがスマトラのバタビア(現ジャカルタ)に派遣され、現地のベリベリ患者や環境を調査したのです。
この調査では、現地の研究者が白米がベリベリの原因であると確定し、すでに粗精米や緑豆などを食べることで予防されていることが分かりました。
しかし、都築らは白米原因説を認めず、帰国後の調査報告は曖昧な内容に留まったのです。
宮本と柴山は伝染病説を固持したものの、都築はこれを機に栄養欠乏説へと転向することになります。
臨時脚気病調査会の研究は、白米中心の食生活が脚気に影響を与えている可能性を浮き彫りにしながらも、軍部の伝染病説の主張と栄養欠乏説の間で揺れ動くことになります。
最終的に栄養素の欠乏が脚気の原因であると判明するまでにはさらに多くの時間と試行錯誤が必要だったものの、森林太郎の主導したこの調査会の活動は、脚気問題に対する日本の医学界の認識を一歩前進させる契機となったのです。
参考文献
山下政三(1983)『脚気の歴史 ビタミン発見以前』東京大学出版会
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