米同時多発テロから22年。ニューヨークに住む人々にとって9/11はどんな日だったのか(後編)
9/11それぞれの記憶 (後編)
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロから今年で22年。ニューヨークに暮らす人々はあの日どんな体験をし、何を感じたのか?
今年の9月11日に寄せて、人々に「あの日」を振り返ってもらった。
校長として子の安全を最優先。そしてビルで働く妹は...
エイダ・ドルチさん(68歳、元・高校校長)の証言
私の経験は少しほかの人とは違うかもしれない。2001年、私はワールドトレードセンター(世界貿易センター、別名ツインタワー)から2ブロック南にある高校で校長をしていた。
リーダーシップ&パブリックサービス高校(Leadership & Public Service High School)という名の学校で、教室の窓からはトリニティ教会が見え、もう一方の窓の外には2つの巨大なビルがそびえ立っていた。
あの日の朝は晴れ晴れとした気持ちでスタートした。新学期5日目のこの日は市長選の予備選挙日で、我が校は初めて投票所としての役割を担うことになっていた。校内は整理整頓され準備万端で人々を迎えた。私はいつもより早めに出勤し、投票所の様子を見守った。(当時の市長候補マイケル・)ブルームバーグさんも投票のために来校予定で、今か今かと待っていた。
突然とてつもない大きな爆発音がした。窓から外を確認すると、上からたくさんの瓦礫や破片が降ってきた。投票所のセキュリティのために配備されていた警官は、すぐさま外に出て行った。事件を目撃した生徒の一人が「ドルチ先生、飛行機がビルに当たったようです」と言う。私は「飛行機?ヘリコプターとかではなくて?」と返答した。私は窓の外を見て神に祈った。妹のウェンディの職場は、北棟103階の証券会社だから。
そうこうしていたら15分ほどして、2つ目の激突音がした。この時は学校のロビーも揺れた。さらに上空からたくさんの瓦礫(後で考えると飛行機の破片だった)が降ってきて、非常に危険な状態になった。私は校長として全生徒の安全を守る責任があった。迷っている暇はなかった。全員いち早くこの場から去らねばならない!
どのタイミングでどこに向かうべきか、判断を迫られた。どの学校でも火災に備え避難先を決めておくなどしっかりした防災マニュアルがあり、避難訓練を重ねてきた。しかしこれほどの規模は想定外だった。辺り一帯が「被災地」となり避難する場所が周囲にない状態だった。
ウェンディの安否が気がかりだったが、私は校長として全校生徒600人と教師を引率し、安全が確保できる場所に避難させる責務がある。妹のことを神にお願いし、とにかく私は安全第一で避難することに集中した。
私が選んだ避難先は、6ブロック南(マンハッタン最南端)のバッテリーパークだった。公園であれば避難許可もいらない。
全員無事にバッテリーパークに到着し園内を移動していたら、再び大きな音がした。今でもたまに頭の後ろの方から聞こえてくる、忘れられない爆音だ。同時に真っ黒で巨大なスモーク、瓦礫の塊がまるで津波のように我々の方に迫ってきた。人々は互いにぶつかり突き飛ばし突き飛ばされながら泣き喚いて逃げ惑った。割れたガラスの破片を背後から叩きつけられて、背中を切りつけられたような衝撃が走った。私は死ぬと思った。
この後、奇跡的に噴水を見つけた。こんなに近くにあるのに、噴水があるなんて知らなかった。見知らぬ男性が水を口に含んで洗浄し、吐き出せと言う。「私は校長です。(唾を吐き出すのは行儀が悪いので)吐きません」と抵抗した(!)。男性はスーツの上着を脱いで私たちのためにバラバラに引き裂き、それを水に浸して埃や粉塵まみれの顔を拭い、口をカバーしろと言った。
公園にあるレストランのキッチンも借りることができ、ナプキンを水に浸して口元を覆った。そんなことをしながら、私は生きていることに感謝した。
公園には1時間ほどいただろうか。その間もとても怖かった。ファイト・オア・フライト(戦うか逃げるか)*を迫られる出来事だったが、私たちは両方をやり抜いた。もがきながら戦い恐怖を耐え抜き、無事を確認した。
- *ファイト・オア・フライト(fight-or-flight):戦うか逃げるか。危機的状況で動物が示す恐怖への反応
その後、小グループに分かれ、それぞれの自宅方向に避難させることにした。何人かの生徒は教師とフェリーに乗り、スタッテンアイランドを経由しニュージャージー州に避難させた。私はバッテリーパークに最後まで留まり、全生徒と教師の避難指示を出した。ウォーキートーキー*で教師と安否を確認し合い全生徒を見届けた後、同じ方角の生徒を引率し、私はマンハッタン橋を歩いて渡って自宅のあるブルックリンを目指した。
- *ウォーキートーキー(Walkie-talkie):スマホのない時代に使われていたトランシーバーのようなもの
歩いている途中、ある女性と出会った。何て呼ぶか知らなかったが、頭を布で巻いているその女性は「怖い」と言った。「私も怖いわよ。でもあなたはそうやってカバーされているから大丈夫。一緒に頑張ってブルックリンに行きましょう」と伝え励まし合った。後にそれがヒジャブという名の布だと知った。
気がかりだった妹のウェンディだが、残念ながら彼女はもうここにはいない。
自宅のあるブルックリンに無事着いたら涙が溢れ出た。夫と話して落ち着きを取り戻し、やっとウェンディのことを考えることができた。避難中はとにかく生徒の無事を守ることで精一杯で、妹の安否を考える余裕がなかったから。しかし3〜4日経つと、妹は見つからないとなんとなく悟った。
妹の職場は証券会社のキャンター・フィッツジェラルドで、彼女は北棟の103階で働いていた。1機目の飛行機が衝突したのは北棟の96階あたりの複数のフロアだった。この会社は多くの従業員をこのテロにより失った。私の両親は、ほかの遺族と同様に、22年経った今でも悲しみが癒されることはない。
補足
1機目のアメリカン航空11便が衝突したのは、世界貿易センター北棟93〜99階の7フロア付近と言われている。証券会社キャンター・フィッツジェラルド(Cantor Fitzgerald)本社オフィスは、北棟の101〜105階にまたがっていた。ウェンディ・アリス・ロザリオ・ウェイクフォード(Wendy Alice Rosario Wakeford)さんなど、同社はこのテロで従業員658人を失った。
私は9年間校長を務め、2012年に早期退職した。以来、9/11の語り部として、教育現場や教師に伝える活動をしている。今年もこうして、9/11メモリアル博物館(911 Memorial Museum)による啓蒙イベントで証言をさせてもらい、機会を与えてもらっていることに感謝している。
補足
倒壊跡地にできた9/11メモリアル博物館では、学校や図書館を対象にしたデジタル学習体験イベントの一環として、Anniversary in the Theaters を実施。今年も昨年に引き続き、提携先のAMC(映画館チェーン)で無料上映イベントが行われ、遺族が証言者として登壇した。
なぜ私があの日の体験をこうやって話しているのか。ただの情熱からではない。このようなことがここで起こったからだ。経験した者として伝える必要がある。
アメリカにとって戦争とはいつも遠い場所で起こっているものだった。しかし9/11は私たちのすぐそばで起こった。私たちは黒煙と瓦礫まみれになりながら必死で逃げた。生きるために。でも残念なことに語り継がれている中には、ここにいなかった人の作り話が含まれる。実際に経験した者がどのようにあの地獄のトラウマから脱出できたか。その後何が起こったか。どうやって破片を拾い上げ立ち直ったか。どうやって前に進んだのかをありのままを伝えることがもっとも大切だ。
感情については、初めのころ考える余裕はなかった。校長という立場は飛行機を操縦するパイロットのようなもので、すべての生徒に対して責任を伴うからそれでいっぱいだった。でもしばらくすると私たちは怒りや憎しみのような感情が出てきた。この国にはそういう一面がある。でも私たちは悪いことや醜いこともたくさんしてきた。あなたの国にも。そして私たちに酷いことがリアルに起こり、テロとは何なのかがわかった。それは誰かを心から憎む酷い行為。
一方で、あの日あそこにいた人々は、互いにケアし助け合った。生徒の中には車椅子の子が2人いた。瓦礫だらけの道路では、車椅子を動かせない。しかし車椅子の生徒を運ぶのを手伝い、車に乗せてくれた人もいた。あの場にいた人だけではない。世界中から救援物資や思いやりのメッセージが届き、私たちの友人として心を寄せてくれた。これこそが私たちがずっとハングリーに求めてきたものだった。
伝える活動で、私はいつもこのように言っている。「自分が学校などコミュニティを作っていて、そこが信頼でき互いを思いやるコミュニティであるならば、このような悲惨なことが起こっても人々は助け合う考えが身についているので、怖いもの知らずですよ、と」。
私たちは今こそ、子どもたちに伝える番だ。より良い世界のためにどうしたら私たちは変わることができるのかと。だって結局のところはどうしたって、この地球で共に生きていかなければならないのだから。
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(Interview and text by Kasumi Abe) 本記事の無断転載やAI学習への利用禁止