米同時多発テロから19年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)
911それぞれの記憶2「アポカリプス(世紀末)のようだった日」
ロバート・レンプリー(Robert Rempley)さん・42歳・コーヒーマスター(エキスパート)
ニューヨークに住んでツインタワー(世界貿易センタービル)を訪れたことがある人はそんなに多くないかもしれないけど、私は3度訪れたことがある。
母方の親戚がフランスから遊びに来る度に展望台を案内し、絶景を眺めながら食べるピザは最高だった。ツインタワーは我々フランス系にとって特別な場所だ。有名なフランスの大道芸人、フィリップ・プティ(Philippe Petit)が1974年、ツインビルの屋上同士をワイヤーで繋ぎその上を歩くという偉業を成し遂げた場所だから。映画『マン・オン・ワイヤー』にもなった出来事だ。
目を閉じると、19年前の出来事が昨日のことのように浮かんでくる。
2001年、私は23歳だった。
当時私はJFK国際空港近くの、ジャマイカ湾が見渡せるアパートの11階に住み、ブルックリンにある大学、シティテック(New York City College of Technology)に通っていた。
9月11日の朝、学校に着くとクラスメートが「飛行機がビルに突っ込んだ!」と興奮しながら言ってきたが、何のことかよくわからなかった。廊下には授業で使うテレビが ー 当時のものはフラットスクリーンではなく大きなボックス型のものだった ー が置かれていたのでスイッチを入れ、皆でかじりつくように見入った。炎と黒煙で燃え盛るツインタワーが映し出され、ニュースキャスターは「旅客機は世界貿易センターのみならずペンタゴンにも突っ込んだ」と言った。皆ショックを受け勉強どころではなく、すぐに休講になった。実際に飛行機がビルに突入するのを見た友人はトラウマになり、1ヵ月ほど学校に姿を現さなくなってしまった。
帰宅はこれまで経験したことがないほど大変だった。避難する人々でどの地下鉄の電車も満員だった。友人の車に乗せてもらうことになったが、車道も高速道路も大渋滞で、少しだけ動いてはしばらく止まりの繰り返し。車で20分の距離がこの日は3時間もかかってしまった。その間、携帯電話がまったく通じなかった。安否確認のために皆がいっせいに電話をかけたからだろう。家族や彼女と連絡ができない状態にやきもきした。
私はずっと自分のケータイを見つめた。何度も何度も。ネイビーブルーのMitsubishiの機種だった。私はそれ以降、もっとかっこいい機種に何度も変えてきたけど、どんな色とデザインだったかさっぱり覚えていない。でもこのMitsubishiのケータイだけははっきりと覚えているし、これからも忘れないだろう。
昨日のことのように鮮明に覚えていることは、ほかにもいくつかある。
まず空と匂いだ。一言で表現するなら「アポカリプス(世紀末)」だ。大火事で空一面を煙が覆っていたが、タバコのような薄いものではなく、濃くて厚い黒煙だった。メタルやプラスチックのようなものが焼け焦げて溶けたような匂いも充満していた。
音もはっきり覚えている。自宅周辺では通常、1日に何千もの飛行機が離着陸を繰り返す。その音は騒音などではなく、聞こえるのが当たり前で私たちの生活の一部だった。しかしこの日すべての航空機が運航中止になったので、自宅周辺はシーンと静まり返った。それが逆にぎこちないというか、非日常を助長した。
もともとこの日は帰宅後、彼女の故郷ポーランドへの航空券を買いに行く予定を以前から立てていた。彼女の21歳の誕生日が12月なので、祖母や友人へ挨拶をしようと計画していたのだ。4機もの旅客機が事故を起こしたら、普通は航空券など買おうなんて思わないのかもしれない。しかし、私たちは怖いもの知らずの若者だった。帰宅後に家族の無事を確認したら、ほかにやることもないので「よっしゃ、予定通りに買いに行くか」となった。航空券 ー スマホもエクスペディアもない時代は、旅行代理店に足を運んで買うものだった ー はその日買いに行って正解だった。ヨーロッパへの往復航空券は通常1000ドル(約10万円)するが、その日は200ドル(約2万円)に値下がりしたから。
今まで誰も経験したことのない悲劇が実際に近くで起こったというのが、ニューヨークに住む人々にとっての911だった。深い悲しみや今後の不安はあったけど、怒りや恐怖のような気持ちはなかった。ただ1つだけ、心が重く感じたことはあった。
テロが起こった後にCNNニュースを観ていたら、中東のどこかの国で大勢の人々が、まるでカーニバルのように路上でダンスをし陽気に歌いながら、テロの成功を祝っている姿が映し出された。ニュースキャスターは歌の内容をこのように解説した。
「イスラエルは蛇、ニューヨークは蛇の頭。蛇の頭が切り落とされた」
ニューヨークにはたくさん裕福なユダヤ人が住んでおり、イスラエルが武器を購入できるよう資金面で支援をしている。イスラエルを邪悪のシンボルである蛇と例え、その頭(資金源)であるニューヨークを破壊した、ということだった。私はその映像を観て、too much(度を越し過ぎて不快)な気分になった。
そもそもあのビルにはムスリムの人たちもたくさん働いていた。ほかにもオフィスに勤務する人、レストランで働く人、清掃や警備の人など罪のない人々がたくさん亡くなった。正々堂々と戦争をすればいいのに卑怯なやり方だと思った。なぜそんなことをして気分良くいられるか、とても信じがたかった。
一方アメリカではテロが起こった夜、何が起こったか。それは人々に希望や魂を与える動きだった。有名人が自主的に次々と手を挙げ、ファウンドレイズのイベントを行った。塞ぎこむんじゃなくて、とにかくポジティブなことをやっていこうとする動きはアメリカ各地で沸き起こり、その後ロンドンなどにも伝染した。
またこれは偶然の重なりだが、テロが起こる4週間前、歌手のエンリケ・イグレシアスが『ヒーロー』という曲をリリースしたばかりだった。「I can be your hero baby〜」というサビで大ヒットしたが、ツインタワーの救出活動で亡くなった340人以上の消防士や警察官、復興作業をする人々をヒーローと呼び、彼らを讃える曲として完璧なほどにフィットしていた。アメリカでは、復興のシンボルとしてしばらくこの曲がずっとこだました。この曲を聞くと、いつもあの頃を思い出す。
911は、世界を永遠に変えた。例えば空港のセキュリティで必ず靴を脱がなければならなくなったのは911がきっかけだ。今では信じられないが、以前は家族がフランスに旅立つ際に、空港のゲートまで一緒に行って見送っていた。今はそんなことができた時代が懐かしい。
今年も、新型コロナウイルスのパンデミックで再び世界の常識が変わろうとしている。感染拡大が落ち着いた今も多くの人々が自宅勤務を続け、学校の授業はオンラインに移行し、ソーシャライズやエクササイズなどライフスタイル全体が遠隔でするものに変わりつつある。自宅で家事をしながら、子育てをしながら仕事をするようになった。遠隔業務が可能であることがわかった以上、高すぎるマンハッタンのオフィス賃料を今後も払い続けたいと思う経営者はどのくらいいるだろうか?
911はアルカイダというテロ組織による行為だったが、ムスリムに対しての差別問題が起こったのは悲劇的だった。私にはアメリカ生まれでこの国を愛するムスリムの友人がいる。彼はオサマというレストランを経営していて、911後に店名を変えなければならなかった。街では、中東出身のタクシー運転手に向かって「お前はテロリストだ」と叫んでいる人も見かけた。ケバブを食べていたら「なんでテロリストの食べ物を食べているんだ」と冗談混じりに言われたこともある。
今年3月に新型コロナウイルス騒動が始まり、同じようなことを見聞きした。例えば地下鉄でたくさんアジア人差別を見た。年老いたホームレス風の人がアジア人女性に向かって「なぜウイルスをアメリカに持ってきたんだ!」と叫ぶ声を聞いた。本当に愚かなことが繰り返されている。
差別をなくすためには、感傷的な気持ちや怒りの感情はいらない。正しい知識と理性に基づいた繊細な行動が必要ではないだろうか。
2020年の主な記念式典 in NY
- 毎年9月11日には、世界貿易センター跡地の「グラウンド・ゼロ」で追悼式典が行われ、遺族らが犠牲者の名を一人ひとり読み上げ、飛行機がビルに突入した同時刻に黙祷を捧げている。しかし今年は新型コロナ対策で人の密度を少なくするため、事前に録画した内容を流すなど新たな試みがなされる。ほかに、規模を縮小した追悼イベントが個々で行われる予定。
- 世界貿易センターに見立てた2本の青い光が夜空を照らす毎年恒例の「トリビュート・イン・ライト」は、予定通り行われる。
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(Text and interview by Kasumi Abe) 無断転載禁止