米同時多発テロから20年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)
日本時間では明日(アメリカでは明後日)、9月11日を迎える。
2001年、アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに始まったアフガニスタン紛争は、バイデン大統領の「9月11日までに終わらせる」という公約通り、20年後の今年8月末、アフガニスタンから駐留米軍を完全撤退させて終結した。
しかしアメリカ現地で人々に話を聞くと「あの悲劇はまだ終わっていない」という声が多く上がる。
20年前のあの日、ニューヨークでは何が起こったのか。911とは何だったのか?
ニューヨークに住みあの悲劇を間近で体験した人々に今年も話を聞いた。今一度、平和について考えるきっかけになれば幸いだ。
911それぞれの記憶
「価値観が根底から覆された」── 復旧作業や慰霊碑作りにも参加
曽野正之さん(50歳、建築家)
私が初めてニューヨークを訪れたのは当時小学2年生だった1978年。エンジニアをしていた父親の転勤で、住み慣れた地元・兵庫県からニュージャージーに移り住んだ。
アメリカ生活は毎日カルチャーショックの連続だった。特に家族とよく訪れたマンハッタンはものすごいインパクトがあった。こんな汚い街があるのだと、ひっくり返るほど衝撃を受けた。70年代の財政危機で街はホームレスが溢れ、通りにはゴミが散乱しとにかく怖かった。しかし同時に強烈な開放感も感じた。
73年に完成したばかりの世界貿易センターのツインタワーを登った時、そのギャップにさらに驚いた。メタリックな最先端の建物で、特に外観は未来を象徴させる雰囲気で「うわぁかっこいい!」と思った。大胆な構成と日本の町家のような繊細な縦のプロポーションに織り込まれた曲線など、建築家となった今でも惚れ惚れするほど素敵なデザインだ。
刺激的な4年半のアメリカ滞在の後、私は住み慣れた兵庫に戻った。しかし94年、シアトルのワシントン大学建築学部の交換留学生として再びアメリカの地を踏んだ。偶然だが、ツインタワーを作った建築家、ミノル・ヤマサキ氏が卒業した大学だ。彼は日系人としてあんなすごい建築物を作った。当時どんなに苦労をしてきたことだろう。
- 注:アメリカではアジア系への差別があり、70年代から80年代にかけてアジア系住民の公民権運動や日系人のリドレス運動が活発化していた。
私は少年期に体験したニューヨークの途轍もなく自由でクリエイティブな空気に呼び戻されるように、建築設計で活動するんだったらここしかないと思い、大学卒業後の98年、再びニューヨークにやって来た。ラッキーなことに、マンハッタンのミッドタウンにある設計事務所でミュージアムや飛行場を設計する仕事に就くことができた。
ニューヨークに移住して3年目、2001年9月11日。
私にとってはいつもの朝だった。
出勤のため、自宅のある14丁目から地下鉄A線で34丁目駅へ。遅刻しかけていたので、駅を出てオフィスまで小走りで向かった。この日はやけにサイレンの音がするなぁと思っていたが、後で思えばちょうど1機目の飛行機がビルに突入した時間帯だった。
オフィスに到着すると同僚がラジオを聴いていて、なにやら飛行機がツインタワーに当たったと騒いでいる。マンハッタンのほかのビルにセスナ機がかすった事故が以前あったと聞いていたので、初めは大した事故とは思いもしなかった。
ラジオを聴きながら仕事をしていたら、今度は2機目がもう1つのビルに当たったという。そこでみんな気づいた。「これは事故ではなくテロだ」と。
それからオフィス内は騒然となった。同僚の女性はボーイフレンドがちょうど飛行機で移動中とかで「どこに落とされるかわからない」と、泣いて取り乱した。ツインタワーと言えば、私の友人も南棟に入っていた日系金融機関で働いていたし、そうでなくても我々は頻繁に出入りしていた。我が社の主要クライアント「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」が当時所有していたビルだったから、普段から模型や図面を持ってプレゼンやミーティングのためによく出入りしている馴染みのビルだったのだ。
北棟107階のレストラン「ウインドウズ・オン・ザ・ワールド」もお気に入りだった。ここからの眺めは絶景で、仕事での会食や、誕生日などプライベートでも利用していた。ツインタワーは、子ども時代の思い出のみならず就職してからも縁深く、ニューヨークで一番好きなビルだった。初めて仕事でそこを訪れたときの喜びは今も忘れられない。
そこでテロが起こるとは思いもしなかった。私はひどく動揺した。さらにタイムズスクエアにも飛行機が落とされるかもしれないという噂が流れ、職場付近も危ないと、オフィスはパニックになりすぐに閉鎖された。
ビルから外に出ると、向かいには大きな窓ガラスのあるレストランがあり、外側に向けて置かれた大画面テレビ前はすでに人だかりができていた。ツインタワーの上階が炎に包まれている恐ろしい光景が生中継され、人々は固唾を呑んで見守っていた。(注:インターネットでニュースをチェックする時代ではなかった)
しばらくしたら、信じられないことに1つ目のビルが倒壊した。ヘリの上空からの映像で、それはまさに地獄絵のようだった。私は腹の中がねじれるような、吐きそうな気分に襲われた。
地下鉄がストップしたので、徒歩で帰宅した。ダウンタウンの空には黒煙しか見えない。ショックでかなり動転したからだろう、帰路の記憶は正直、断片的だ。ツインタワーで働く友人や仕事仲間の携帯が通じなくて安否がわからず、頭が真っ白になっていた。
アパートに着くと、隣に住んでいたおばあさんがビルの入り口に座り、通行止めを知らせる発炎筒を茫然と眺めていたのは、覚えている。いつもは昔ながらのニューヨーカーといった元気いっぱいな感じの人が、急に魂を抜かれたように脆く見えた。
自分のアパートは14丁目の通りの北側に位置し、南側は封鎖されダウンタウンには入れなくなっていた。アーティストをしている親戚が事件現場近くに住んでいて、電話が通じないのでとても気がかりだった。
確か数日後、近くまで行けるようになり様子を見に行ったんだった。現場に近づくほどメタルが焼けるような匂いが増し、灰を被った車などがあった。周辺には軍の装甲車があり、夜間、戦闘機が頭上を通る爆音もした。幸い、親戚は無事だった。でも1機目がビルに激突した後、ツインタワーから次々に飛び降りる人々やビル崩壊で迫ってくる大量の埃を間近で見て、トラウマになってしまった。
クライアントも友人も皆、無事であることが確認できた。クライアントの事務所は北棟の73階で、飛行機が95階あたりに激突した後すぐに避難したそうだ。友人はその朝たまたま忘れものをし若干遅れて到着したら、北棟の事故発生直後でビルに入れず立ち往生していたところ、2機目が南棟に激突するのを真下から目撃し、すぐに逃げ難を逃れた。
この悲劇は、私にとって既視感があった。もともと地元の神戸大学に在籍中に阪神・淡路大震災が起こり、私が大好きな街が破壊された。そして911の事件もその記憶と重なった。もちろん天災と人災ではまったく異なるが。神戸の時は何もできなかったので今回は何かしなくてはと強く思った。
911は人殺しだ。人間ていうのはこんな残酷で狂ったことができるんだと、私はひどく失望した。
アメリカもツインタワーも自分の大好きなものがいっぺんに壊された。ニューヨークはあの事件までがもっとも魅力的だったと思う。経済が回復し、街も綺麗になったがまだ過度にジェントリフィケーションされておらず、何より文化的に面白くなっているところで、一気にひっくり返された。私にとって一番大事なのはお金などではなく「クリエイティブで美しいもの」であり、そのためにあらゆるものを犠牲にしてきたが、911でその価値観が根底から覆された。それらは暴力の前では何の力もないという強迫観念にとらわれた。
事件後、職場の設計事務所が復旧作業に加わることができるというので、私も志願し参加した。倒壊跡地は泥だらけのクレーター(穴)になっていた。その実測をし、敷地をぐるっと覆う仮設メモリアル「ヴューイングウォール」(犠牲者名や復興現場の写真を展示した鉄格子の壁)のデザインにも参加した。これは一時的な設置だったが、頑丈に作った。なぜなら再び爆弾が投げられるかもしれないという懸念があったからだ。
毎日、泥だらけの復興現場に向かった。私は防毒マスクを着けていたが、マスクを着けていなかった作業員の多くがその後ガンなどを患い亡くなっている。
2003年、市内スタテンアイランドの911慰霊碑のコンペがあり、自分が信じてきたものにどれだけ社会的な意味があるかをもう一度確かめたいと思った。だから自分がこれまで見たことがないくらい美しく優しく、そして強いものを作ろうと、その一心でデザインに向かった。そして翌年に完成したのが、The Staten Island September 11 Memorial(別名ポストカーズ)だった。それは残された人々のためであり、同時に自分のためでもあった。
事件当時の子どもたちが社会人に成長した今、私たちが太平洋戦争を歴史の教科書で習ってきたように、911は若者世代にとって抽象的な歴史の一部になった。自分が手がけた慰霊碑に一つ一つ違う個人の横顔のイメージを入れたのは、未来の人が見ても、犠牲者が自分と同じように実在した人物だと想像できる、より具体的な手掛かりになればという思いもあったからだ。
この慰霊碑を通じて、訪れた人々があの事件をデータではなく集合的な記憶として実感することで、このような悲劇が二度と起こらない未来を考える糸口になればと願う。
(後編につづく)
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(Interview, Text and photos by Kasumi Abe) 無断転載禁止