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米同時多発テロから21年。ニューヨークに住む人々にとって9.11はどんな日だったのか

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
(写真:Shutterstock/アフロ)

アメリカで同時多発テロ(9/11)が発生し、今年で21年目となる。2001年に生まれた人は21歳となり、テロ発生後生まれの人口も増えている。

年数が経過しても、今だこのテロ事件は尾を引いている。

21年目の主な動き:

  • アフガニスタンで7月31日、テロを実行したアル・カーイダの指導者、アイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri)容疑者が米軍のドローン空爆により殺害されたと米メディアが報じた。テロ事件の首謀者、ウサマ・ビンラディン容疑者の側近だった人物で、11年にビンラディンが米軍に殺害された後、最高指導者になっていた。

  • ニューヨークでは8月17日、倒壊現場から数ブロックの場所にあった9/11トリビュート博物館が、財政難により閉館した。同館は15年間、多くの人々に歴史を伝えてきたが、パンデミックで観光客が激減し運営が困難に。収蔵品の多くは州北部のニューヨーク州立博物館に移された。ウェブサイトでの資料提供と遺族への支援は今後も継続される。

先月閉館した9/11 Tribute Museum。2006年の開館以来、141ヵ国から500万人以上が訪れた。(c) Kasumi Abe
先月閉館した9/11 Tribute Museum。2006年の開館以来、141ヵ国から500万人以上が訪れた。(c) Kasumi Abe

21年後の倒壊現場。
21年後の倒壊現場。写真:ロイター/アフロ

9.11それぞれの記憶

ニューヨークに暮らす人々は、あの日どんな体験をし、何を感じたのか?21年目の9月11日に寄せて、今年もあの日を振り返ってもらった。

人生最悪の日を救ったヒーローたちと希望のトラック

モニカ・グリックさん(61歳、カトリック教布教組織 勤務)

3歳だった末娘は今年24歳。あれから21年も経ったけど、あの日のことは今でもはっきり覚えています。

目を閉じると、すべての出来事がまるで昨日のことのように脳裏に浮かびます。助けに来てくれた息子の表情や髪型、ラップトップを抱えた煤(すす)のついた男性、南部訛りの警官......。

2001年9月11日、あれは火曜日の朝でした。

8時55分ごろ、いつものように最寄りの駅に到着し、勤務先に向かっていました。

まず思い出すのは、駅に着いて見上げた空です。「わ〜、今朝の空はなんて青いの」と思いました。それほどあの日は雲一つない素晴らしい晴天でした。

当時、オフィスはマンハッタン区35丁目と五番街、ちょうどエンパイアステートビルから1ブロック北にありました。ブロンクス区の自宅からバスと地下鉄を乗り継ぎ1時間半ほどの場所です。

(出典:グーグルマップに筆者が加工)
(出典:グーグルマップに筆者が加工)

オフィスに近づくと、消防車のサイレンがけたたましく鳴っているのに気づきました。あちこちでサイレンが鳴り響くなんてニューヨークでは至って日常風景だけど、この日のサイレンはなんだかいつもより賑やかでした。後から考えると、ちょうど1機目が北棟に突入した直後だったのでしょう。人々は立ち尽くしたまま、一様にダウンタウンの方角を見つめていました。そこには、晴天に黒く巨大な煙の柱が立ち込めていました。

当時の周辺の様子。雲一つない真っ青な空に黒煙が立ち込めた。
当時の周辺の様子。雲一つない真っ青な空に黒煙が立ち込めた。写真:ロイター/アフロ

私は今でもこう思ったのを覚えています。「仕事に向かう時間よ。皆、なんで同じ方向を見ているのよ?」と。私はこの地で生まれ育ち、今の今までここで生きてきた生粋のニューヨーカーです。21年前だからあの時は40歳。この街で事故は日常茶飯事だから、またどこかで火災でも起きたのでは、くらいの受け止めでした。

私が働くカトリック教布教組織のオフィスではその日、大規模な理事会の会合が予定され、他州から多くの来客を迎える予定でした。ロビーに着くと係員が先ほどの騒動について「心臓発作か何かによる事故でしょうね」と言っていました。

飛行機のビル衝突事故と言えば、その昔、小型機がエンパイアステートビルに突っ込んだ事故*があまりにも有名です。この事故も、操縦士が発作か何かで操縦できなくなったんだろうと、当時誰もが思っていました。

補足

1945年7月28日午前9時40分、エンパイアステートビル北側の78〜80階付近に米軍機B-25が衝突する事故があり、14人(米軍機の3人、ビル内の11人)が死亡した。濃霧が事故の原因だった。また近年もマンハッタンでは小型機やヘリコプターによるビルへの接触や墜落する事故が、稀に起こっている。

会合前にミサが予定されていて、事故に遭った被害者のためにお祈りを捧げようということになりました。しかしその後、取締役の秘書がやって来て「今度は別の飛行機がほかの建物に衝突しました。これはただの事故ではありません」と言いました。1、2時間すると警察がやって来て「今すぐ避難せよ」と避難勧告が出たため、私たちはビルの外に避難しました。

画像制作:Yahoo! Japan
画像制作:Yahoo! Japan

予想だにしないことが次々に起こり、一体全体何が起こっているのか誰も理解が追いついていませんでした。当時、通話用の携帯電話は持っていましたが、スマホなんてない時代*です。

補足

当時の主要な情報源はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌だった。現代のようにスマホやソーシャルメディアはなかった。

結局、全航空機に着陸命令があり空路は閉鎖されたのですが、事故直後はまだ無数の航空機が上空を飛んでいる状態だったので、「また別の飛行機が別のビルに追突するのでは?」「次に狙われるのはすぐ近くの(アイコン的な)エンパイアステートビルかもしれない」と恐怖で一杯でした。「とにかくこの場から避難しなければ!」と焦りました。

ソーシャルメディアのない時代、家族により行方不明者の情報が路上駐車中の車両など至る所に張り出された。
ソーシャルメディアのない時代、家族により行方不明者の情報が路上駐車中の車両など至る所に張り出された。写真:ロイター/アフロ

家族のことも気になりましたが、電話の通信障害*で夫とは電話がまったく繋がりませんでした。

補足

北棟(1ワールドトレードセンター)の屋上に通信用アンテナの尖塔が設置されていたため、事件後、通信障害が発生した。

3歳だった末娘ハンナは夫と自宅にいて、テレビでアニメを観ている時間でしたが、何より夫の子、長男ジョシュが気がかりでした。当時24歳だった彼は(レストランや施設のインテリアに植物を取り入れ景観をデザインする)ランドスケーピング会社で働いていました。この日、ジョシュは同僚と軽トラックで、世界貿易センター(以下WTC)に向かっていたのです。でも彼はいつものように遅刻気味で事故直後に到着し、テロ事件に巻き込まれずに済んだのでした。

WTC周囲が閉鎖されたためジョシュは引き返し、途中で私のビルに寄ってくれ、同僚と一緒にここから救い出してくれたのです。公共交通機関はカオスで道路は人でごった返し、どうやって帰宅しようか途方に暮れていた中、目の前に突然現れた息子はまるで『ランボー』(アクション映画の主人公、ジョン・ランボー)のようでした!

軽トラの荷台は13、14人が立った状態で乗れるスペースがありました。造園道具や土やらで散らかっていましたが、そんなことは誰も気にしていられません。

息子が救いに来てくれた。しかしそれでも恐かったです。想像してみてください。あなたの近くで今、予想だにしない事件が連続で起こったとします。一体誰の仕業か、何のためか、単独犯によるものか共犯者がいるのか、次に何が起ころうとしているのか......電話も繋がらない(もちろんスマホもない)。そんな状況では、恐怖と不安しかありません。

エンパイアステートビル方面から見たテロ現場の上空。
エンパイアステートビル方面から見たテロ現場の上空。写真:ロイター/アフロ

大混乱の中、軽トラは北へ北へと進みます。交通渋滞でゆっくりとしか進みません。長く続く道中、私たちは軽トラから叫び続けました。

「誰か乗りたい人いませんか?」

「降りる人はいますか?」

ごった返す道の脇から見知らぬ人々が、次々に荷台へ飛び乗ります。これはエクアドルや中米で見た光景でした。

過酷な状況ですが人々は互いに笑顔を忘れません。全部で40人くらいが乗り降りしたかもしれません。トラックの中では国籍、人種、年齢、職業......あらゆる垣根を超え、人は皆平等でした。

このトラックにはさまざまなドラマがありました。ラップトップを抱え煤で汚れた男性は、コンピュータコンサルタントをしていて、最初に衝突があったビルから避難して来たと言っていました。アフリカ系の男性、確かナイジェリア出身だったと記憶していますが、彼は荷台に乗っても無言のままでした。ある地点に差し掛かったところで涙をボロボロ流し始め、こう言いました。「人々が次々にビルから飛び降りる姿を見てしまった」と......。

ある女性はトラックを降りるとき神に祈りながら私たちをハグし、ジョシュの軽トラを「Hope Truck(希望のトラック)」と名付けて去って行きました。

確かに息子らは我々のヒーローでした。息子だけではなく、あの日はたくさんの人がヒーローとして身を捧げました。

現場から多くの人が避難した。
現場から多くの人が避難した。写真:ロイター/アフロ

「希望」は続きます。

トラックがブロンクス区に差し掛かると、そこには小さな食料品店があり、避難する人々にミネラルウォーターやクッキーを配布していました。私はこの光景を目にした瞬間、途轍もないほど強いソリダリティ(連帯感)を感じ、胸がいっぱいになりました。誰もがこの困難に直面しながら、見知らぬ人同士が互いに助け合い、繋がっていました。

2年後に起こった大停電*、そして2020年の新型コロナ感染拡大とロックダウン......。この街は幾度もサバイブしてきたけれど、9.11同様に街が大混乱に陥った大停電の時でさえ、水や(歩きやすい)サンダルは有料で売られていたし、パンデミック中は人に寄り添うどころか一定の距離を保たなければなりませんでした。9.11ほどの助け合いや連帯感はありませんでした。

補足

2003年8月14日の北米大停電。停電は29時間続き、9.11の時のように人々は立ち往生した。交通機関が麻痺し人々は徒歩で帰路に就いたが、帰宅が困難な人の中には野宿を強いられるケースもあった。

2003年の北米大停電。都市の混乱は9.11を彷彿とさせた。
2003年の北米大停電。都市の混乱は9.11を彷彿とさせた。写真:ロイター/アフロ

9.11の日は、自宅に到着するまでいつもの2倍の時間、3時間半ほどかかりましたが、実感としてはそれ以上でした。自宅の椅子にへたり込むと、夫がグラスワインをそっと手渡してくれました。

自宅近辺から遥か遠くにローワーマンハッタン(テロ現場)が見えます。雲一つなかった真っ青な空は真っ黒になっていました。

テロから時間が経過するにつれ事件の真相が明らかになり、少し冷静になると今度は不安な気持ちが襲ってきました。親として子の未来について、成長していく彼らにとってどんな世の中になっていくのかとか、そういった危惧です。また、毎朝家族に挨拶して別れ、その後何が起こるかなんてわからない。それを教えてくれたのもこのテロでした。

私がオフィスに戻ったのは数日後です。私は自宅で仕事ができない性分で、コロナ禍でもオフィス勤務は欠かせません。この時も木曜日には職場に戻ったと思います。地下鉄は運行しておらず、シャトルバスで行ったでしょうか。とにかく「私の街だもの。負けるもんか!」という思いで向かいました。

街中が通常運転に戻るのにはしばらく時間がかかりました。テロ再発の恐れもありマンハッタンはゴーストタウンのようでしたが、エンパイアステートビルには巨大な星条旗が掲げられ、通りからは方言が聞こえてきました。若い警官が南部アクセントで「大丈夫でしたか?」と私に気遣ってくれたとき、緊張の糸が切れたのか、歩道に突っ立ったまま涙がポロポロ溢れ出し、止まらなくなりました。

テロで多くのファーストレスポンダー(消防隊員、救急隊員、警察官)を失ったニューヨークに、他州の人々が心を寄せ、我々と共に立ち上がり、救助や援助に駆けつけてくれたのです。瓦礫や粉塵まみれの中、現場周辺の教会だけはオープンし、救助隊に水や酸素吸入器を配布していました。世界中からも心配の声が届けられました。支援のエネルギーがひしひしと感じられ、本当に心強かったです。

モニカさん。「あの日をこのように伝え続けてくれてありがとう」と取材後、筆者に声をかけてくれた。(c) Kasumi Abe
モニカさん。「あの日をこのように伝え続けてくれてありがとう」と取材後、筆者に声をかけてくれた。(c) Kasumi Abe

テロ後、今とは違う「ニューノーマル」が生まれました。バスに乗ったら周りの人々の顔を互いに見て確かめ合うようになりました。セキュリティは強化され、ビルの入り口でIDを求められるようになり、空港では「このバッグは他人から手渡されたものですか?」などと質問されるようになりましたよね。

幸い、友人や家族で亡くなった人はいませんが、子どもから命を救われた近所の男性を知っています。あの日の朝、バスに乗ろうとした時その男性に会いました。彼はWTCで会議があるのに、直前に息子と言い争いになって出発が遅れたと非常に焦っていました。でもそれでテロに巻き込まれずに済んだのです。後日偶然再会し、この日の朝を思い出して、互いの無事を喜び合ったのでした。

犠牲者の中で、マイケル・ジャッジ神父*が倒壊現場から救助隊に運び出されるシーンはあまりにも有名です。彼は市消防局のチャプレン(神父)を務めており、犠牲者のために祈りを捧げるために現場に向かい、倒壊に巻き込まれて命を失いました。

補足

神父のマイケル・ファロン・ジャッジ(Mychal Fallon Judge)氏は1機目が北棟に衝突後、現場に駆けつけ祈りを捧げていた際、南棟の倒壊に巻き込まれた。倒壊前の北棟ロビーからジャッジ氏の遺体が救助隊により運び出される際の写真(シャノン・ステープルトン(Shannon Stapleton)氏が撮影)が波紋を呼び、全米の涙を誘った。同神父は「被害者0001」(テロで亡くなった最初の公式犠牲者)として認定されている。

犠牲者は現場で亡くなった人だけではありません。化学物質で事件後に救出活動をした人や周辺の住民の多くもその後、呼吸器系や癌などの病気になり亡くなっています。

テロの翌年に生まれた私の孫は今年ハタチで、9.11を直接知りません。3歳だった末娘も記憶にありません。そんな若い世代に伝えたいこと。そうですね、あの日は最悪な1日だったけれど、私たちがベストピープル(最高、最強などの意)になった日でもあったということです。

それを成し遂げたのは「助け合い」です。名前も知らない人同士の間で、援助の輪がありました。それらが心の癒しに繋がったのは言うまでもありません。そして心に突き刺さったのは「希望」でした。

今後どのような困難が起ころうとも、暗闇にフォーカスするのではなく最善と思われる方向に光を当て、自分がベストを尽くせるよう、また他人もベストを尽くせるよう、助け合うことができればきっと大丈夫。連帯感の方がテロの恐怖より何倍も強力でしたからね。これらが9.11の体験を通じた大きな学びです。

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原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より
原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より

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(Interview, text, and some photos by Kasumi Abe) 無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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