住民の3分の2が追放された、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
住民の3分の2が追放
1755年頃、石徹白豊前による強権的な支配はさらに強まっていきました。
反豊前派の急先鋒とされた3名は投獄され、春からは社人たちに対して外出と3名以上の会合が禁止されたのです。
郡上藩から派遣された足軽2名が社人たちを監視しましたが、その滞在費は社人に負担させられるという過酷な状況でした。
その後、同年11月末、江戸で寺社奉行に越訴を行った6名は、郡上藩領内からそれぞれ三方に分かれて追放されました。
彼らは長期間にわたって拘束され、一度も正規の裁判を受けることなく追放処分を言い渡されたのです。
杉本左近は郡上郡美並村母野で解放されましたが、長い拘束期間により衰弱し、足腰も立たない状態でした。
そんな彼を近隣住民が助け、彼の旧友である各務郡芥見村の豪農・篠田源兵衛の助けを受けることとなったのです。
篠田は以前、白山参りの際に杉本に助けられたことがあり、恩返しとして彼を温かく迎え、体力が回復するまで滞在を勧めました。
また篠田源兵衛は訴訟の進行や戦略についても親身に相談に応じるなど、追放された社人たちの大きな支えとなったのです。
一方、根尾は反豊前派の14名の社人を城下に呼び寄せ、吉田家支配を受け入れ豊前に従うよう命じましたが、彼らはこれを拒否しました。
根尾はさらに60余名の社人も呼び出し、同様の要求を行いましたが、これに従う者もいなかったのです。
結果として、彼らは全員入牢させられ、一昼夜飲食を許されることなく、追放処分を受けました。
持参していた旅費や所持品は没収され、寒空の中、薄着で追放された社人たちは厳しい状況に置かれたのです。
この追放処分を通じて、反豊前派を徹底的に排除したのです。
さらに、追放された社人たちの家族も豊前宅に集められ、吉田家支配を受け入れるように迫られたのです。
しかし、これにも従う者はなく、豊前は彼らを「そんなに白川がいいのであれば飛騨の白川にでも行け」と言って白川村(現在の白川郷)へ追放することを決定しました。
追放された者たちは厳しい冬の寒さの中で飛騨へ向かいましたが、その途中で凍死する者や、谷底に落ちる者も出たのです。
白川郷は石徹白同様に厳しい環境であり、追放された社人たちが生活できる余地はほとんどなく、多くは美濃や越前、遠くは近江へと流浪しました。
こうして多くの人々は騒動が解決するまでの約3年間、過酷な生活を強いられたのです。
追放者の中には、餓死する者も相次ぎ、特に子どもや老人が多く犠牲となりました。
箱訴状によれば、餓死者は70名を超え、その半数が子どもだったとされています。
一方で、全く支援がなかったわけではなく、篠田源兵衛のような人物が追放社人たちを援助し、彼らに私財を貸し与えることで生き延びる手助けをしました。
このように、多くの社人が放逐された結果、石徹白の人口の約三分の二が失われたとされています。
続きはこちら