箱訴決行、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
切り札、箱訴
石徹白豊前の右腕であった上杉左門が離反し、追放社人たちに加勢したことは、彼らにとって大きな力となりました。
左門の情報によれば、豊前派の社人たちは郡上藩の役人と結託し、依然として勢力を振るっていたのです。
追放社人たちは上村十郎兵衛、上村五郎右衛門、植村七右衛門の3名を代表に立て、82名の社人と6名の家来が署名した訴状をもって、1757年11月に再び寺社奉行・本多忠央に訴えました。
訴状は受理されたものの、進展はなく、追放された社人たちの状況は悪化し続けました。
追放から2年が経ち、餓死者は62名に達してもなお、訴訟の進展がない中、一部の追放者たちは、代表者が本当に訴状を提出したのか疑うようになったのです。
こうした状況下、追放者たちの団結を支えたのは篠田源兵衛でした。
源兵衛は有力な追放社人と協議し、訴訟の人員不足を補うため、京都の白川家を通じて幕府への働きかけを進め、さらに朝廷にも訴える策を考えました。
1758年4月、長尾左兵衛と久保田九郎助が白川家に支援を依頼するため京都に出発したのです。
しかし、江戸で訴訟を進める人材の確保は困難で、ようやく6月に久保田九郎助と森左衛門が、72名の追放者の餓死者名簿を携えて江戸に向かい、評定所の目安箱に訴状を投函する「箱訴」を行いました。
最初の訴えは無視されましたが、7月に再度訴状を提出し、三度目の箱訴でようやく訴えが受理され、幕府による訴訟が進展することとなったのです。