幕府に訴えるも梨の礫、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
幕府に訴えるも、梨の礫
1754年8月、石徹白の神職である杉本左近ら3名は、江戸の幕府寺社奉行・本多忠央に対し、石徹白豊前を訴えました。
この訴状では、まず白山中居神社の造営林の無断伐採や上村治郎兵衛の追放といった問題に加え、豊前が吉田家の権威を利用して石徹白を独裁的に支配しようとしていることを指摘します。
さらに、神主職は世襲制ではなく、神職の中から選ばれるべきであると訴えました。
しかし、杉本らの訴えは受理されたものの、寺社奉行の本多忠央は金森頼錦の親族であり、訴えはすぐに金森家に伝えられました。
結果として、訴状は金森家によって処理されることとなり、杉本らの要望である幕府の直接の審理は行われなかったのです。
金森家家老・伊藤弥市による形式的な取り調べの後、杉本らは郡上八幡に送り返されましたが、到着すると越訴の罪で手錠をかけられ、宿預けとして厳重に監禁されました。
そのうえ、杉本とともに訴えを起こした上村重郎兵衛と桜井吉兵衛の2名は、石徹白豊前の元に送られ、激しい尋問を受けることになります。
しかし、2人は「命ある限り豊前に従わない」と抵抗し、最終的には郡上八幡に戻されましたが、後に3名とも入牢を言い渡される結果となりました。
一方、石徹白豊前は、杉本らの要求に対して反論書を提出しました。
彼は、自分の行動は石徹白の社人たちの総意に基づいており、支配を独占する意図はないと主張します。
上村治郎兵衛の排除についても、治郎兵衛が浄土真宗の僧・恵俊と結託したために混乱が生じ、吉田家と東本願寺が秩序を回復するために追放を命じたに過ぎないとしました。
さらに、神主職は九代にわたって世襲されてきたと述べ、神職の中から選ばれるという主張は事実に反すると反論したのです。
また、同時期に豊前派の人物も郡上藩に訴訟を起こす書状を提出します。これにより、杉本左近の責任や言動を厳しく非難し、豊前の正当性を補強する形で訴えました。
このように豊前は、自らの行動を正当化しつつ、吉田家や東本願寺と連携して自らの支配を強固にしようとしました。
しかし反豊前派の抵抗が続くことで、石徹白の対立はさらに深まっていったのです。