分断の予兆のあった、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
分断の土壌のあった石徹白
石徹白での騒動の中心には、神主の世襲制と吉田派・白川派の支配権を巡る争いがありました。
石徹白豊前は自らが世襲神主であると唱え、吉田家の権威を頼りにして自らの立場を強化しようとしたのです。
一方で、反豊前派は神主が世襲制ではなく合議で決めるものであり、石徹白は白川家の配下にあると反論しました。
古文書の分析からは、石徹白には吉田家と白川家の双方に属する社人が存在していたことが確認され、騒動以前の支配関係は明確ではなかったと考えられます。
また、平泉寺が石徹白を含む白山信仰の拠点に対して起こした訴訟では、石徹白豊前が訴訟に参加しましたが、結果として平泉寺の主張が認められ、白山信仰は平泉寺の支配下に置かれることになりました。
この敗北を通じて豊前は、権威や権力の力を借りる重要性を痛感したとされています。