遂に始まった幕府による裁判、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
遂に始まった幕府による裁判
1758年8月24日、寺社奉行による吟味が開始されました。
今回、担当したのは新任の寺社奉行・朽木玄綱で、久保田九郎助と森清右衛門は軽い取り調べを受け、宿預けとなったのです。
1758年9月11日、朽木玄綱は再び二人を呼び出し、詳細な取り調べを行います。
将軍・徳川家重が幕府要人の関与を疑い、老中酒井忠寄らが評定所での吟味を指揮することになったのです。
同時に、石徹白騒動も郡上一揆と同じく評定所で吟味されることが決定され、8月22日、寺社奉行から評定所に全ての書類が引き渡されました。
これにより幕府の最高機関である評定所で審理されることになったのです。
評定所での吟味の中心は、石徹白豊前の専横と贈賄でした。
豊前は社人の共有財産である白山中居神社の造営林を無断で切り倒し、追放した社人の財産を自分のものにしており、さらに新たに年貢を取り立てていたのです。
また、500名以上の社人を追放したことも大きな問題とされました。
さらに、豊前が世襲神主であるかどうか、石徹白が吉田家の支配下か白川家の支配下かという点も焦点となったのです。
豊前は吉田家の権威を利用して強権的に支配してきた一方で、反豊前派は頭社人から選ばれるべきだと主張していました。
吟味の過程で明らかになったのは、豊前と郡上藩役人とのずぶずぶの関係でした。
豊前は郡上藩の家老や寺社奉行に賄賂を贈り、専横を許されていたことが厳しく追及されたのです。
石徹白騒動の背後には、金森家と幕府要人との癒着があるのではないかとされ、この点も吟味の焦点となりました。
郡上藩の関係者に対する尋問は厳しく、郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門や手代の片重半助、大目付の津田平馬らが牢死する事態にまで発展しました。
評定所は石徹白が吉田家の支配下か白川家の支配下かという問題に関しても調査を進めました。
京都町奉行を通じて吉田家と白川家に問い合わせた結果、吉田家は諸神社を支配していると回答し、白川家は支配下に神社はないと報告されたのです。
しかし、杉本の祖先が白川家の門弟であったことを示す書状が発見され、調査は慎重に進められました。
最終的に、この書状は私文書として信用できないとされ、石徹白は吉田家支配であるとの結論が出されたのです。
こうして、8回に及ぶ評定所での吟味を経て、1759年1月23日、郡上一揆と同日に石徹白騒動の判決が下されました。
評定所による厳しい尋問と調査を通じて、石徹白に平穏が戻る道が開かれましたが、騒動は長期にわたり石徹白の人々に多大な影響を与えたのです。