厳しい判決の下った豊前、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
厳しい判決の下った豊前
1759年1月23日、評定所で郡上一揆と石徹白騒動の判決が夜を徹して言い渡されました。
この判決は、老中5名、側用取次の田沼意次、御詮議懸り5名が列席する中で行われ、翌朝まで続いたのです。
まず、郡上藩主・金森頼錦は、郡上一揆と石徹白騒動の責任を問われ、領地を没収され、盛岡藩に預けられることとなり、名門金森家は断絶しました。
郡上一揆に関しては、藩主としての責任を果たさず、幕府の介入に頼った点が問題視されたのです。
一方、石徹白騒動においては、反豊前派の訴えに耳を貸さず、石徹白豊前の専横を許し、社人の大量追放を招いた責任が厳しく問われました。
郡上藩の家老、渡辺外記と粥川仁兵衛は、遠島の刑に処されました。
彼らも石徹白騒動での収賄や反豊前派の訴えを無視した責任を問われたのです。
寺社奉行の根尾甚左衛門も石徹白豊前からの贈賄を受け、豊前の横暴を見逃し、追放社人の資産を着服した罪で死罪とされましたが、彼はすでに牢死していたため、刑の執行はありませんでした。
また、手代の片重半助も同様に死罪を言い渡されましたが、彼もまた牢死していたのです。
石徹白豊前は、判決により、吉田家支配下の世襲神主であると認定されました。
しかし、彼の専横な行為、つまり社人の財産を横領し、造営林を無断伐採し、社人に新たに年貢を課すなどの不法行為が断罪され、死罪が言い渡されました。
豊前はその後、処刑されたのです。
反対派の代表者である杉本左近は三十日押込の刑を受けました。
また、上村十郎兵衛、上村五郎右衛門、植村七右衛門らは急度叱りの処分を受けたのです。
彼らは石徹白が白川家のものであり、豊前が世襲神主ではないと主張しましたが、これが事実に反するとされたためです。
杉本左近らは吉田家に詫び状を提出するよう命じられましたが、その後も石徹白に住むことは許されました。
豊前に協力した社人の中で、庄屋に任命された由助は、追放社人の財産を勝手に処分した責任を問われ、軽追放の処分を受けましたが、他の協力者は無罪とされました。
このように、石徹白騒動は幕府によって裁かれ、豊前の専横が終焉を迎えたのです。