寒村に君臨した独裁者、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
寒村の独裁者
石徹白豊前は、父・大和の死を機に石徹白での権威を一層強めようと画策しました。
1754年、父の死後すぐに帰郷した際、豊前は大名行列のような派手な行列を仕立てて石徹白に入ったのです。
この派手な行動は、豊前が九条家との関係を誇示し、さらに自らの権力を強調するためのものでした。
彼は吉田家や郡上藩に加え、九条家の権威も利用しながら、石徹白支配を強化する意思を明確にしていたのです。
豊前は石徹白に戻ると、すぐに社人たちを集め、吉田家の命令として「白山中居神社の社人は吉田家の支配を受け、豊前に従うように」との書状に捺印を求めました。
これに従わない者は神職を剥奪され、農民に降格すると脅したのです。
また、反対派の上村治郎兵衛には禁足令を出し、1754年5月には郡上藩寺社奉行の手代が上村を取り調べもなく追放しました。
これは上村が豊前を批判していたことに対する報復であり、同時に豊前の支配を受け入れない者への見せしめでもあったのです。
さらに、豊前は父が問題を起こした白山中居神社の造営林を再び伐採し、その材木を売却するという暴挙に出ました。
造営林は本来、神社の修復用であり、私的な利用は禁じられていましたが、豊前はこれを無視して伐採を進め、他人の山林まで手を伸ばしたのです。
社人たちは郡上藩寺社奉行に訴え、神主の交代を求めましたが、奉行は証拠がないとしてこれを拒絶し、逆に社人たちを叱責しました。
このように、豊前は吉田家や九条家の権威を背景に強権的な支配を進め、反対派を排除しました。
しかし、奉行や藩との結託が明らかになると、社人たちは幕府に直接訴えることを決意し、豊前の専横に対抗する動きを見せ始めたのです。