石徹白豊前の恐怖政治、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
石徹白豊前の恐怖政治
石徹白豊前は反対派を追放した後、吉田家と郡上藩の後ろ盾を得て、独裁体制を確立しました。
豊前は追放された社人の家財や馬、備蓄食糧を没収して売却し、私物化しました。
また、造営林や他人の山林から材木を大量に伐採し、その売却益も独占したのです。
豊前はこれらの利益を使い、白山中居神社の前に新たな邸宅を建て、陣屋を設け、家来の由助を庄屋に任命しました。
この独裁体制は、彼を支持する一部の社人によって支えられ、騒動が終結する1758年まで続いたのです。
さらに豊前は郡上藩の役人と協力し、これまで年貢免除だった白山中居神社の神地に対して、収穫量の三分の一を年貢として取り立てる検地を実施しました。
これは郡上藩の財政難を背景に、新たな収入源を確保するための策だったとされています。
豊前の年貢取立てや賄賂工作は郡上藩の家老にまで及びましたが、1758年の幕府の判決では、豊前の行為が罪状として挙げられたものの、郡上藩の収入目的は否定され、役人らの賄賂による私腹肥やしが問題視されました。
杉本、動く
1755年の冬、500名以上の石徹白社人が追放される中、杉本左近は各務郡芥見村の篠田源兵衛宅から京都へ向かいました。
杉本は白川家への支援を求め、公家との縁故を頼りに活動を続けたのです。
すでに彼の叔父・杉本左太夫らが、白山中居神社の社人たちが白川家の門弟であることを確認しようとしていた経緯があり、その動きに続くものでした。
京都での活動後、杉本は美濃に戻り、追放された社人たちとともに江戸での訴訟を決意します。
1756年7月、杉本は単身で江戸へ旅立ち、公事宿の上州屋新五郎方に滞在しました。
ここで彼は追放された社人84名の連名による訴状を作成し、同年8月4日、老中松平武元の行列に飛び込み、訴状を直接渡す「駕籠訴」を実行したのです。
この訴えは受理され、訴状は寺社奉行の本多忠央に回されることとなりました。
本多は金森家へ訴状を渡すことなく、吟味を開始せざるを得ない状況となったのです。
同年閏11月、石徹白豊前は江戸に呼び出され、ようやく調査が始まりました。
しかし進展は見られず、石徹白では依然として豊前派の社人たちが郡上藩の協力を得て、追放された社人の家屋を壊して薪にしたり、山林を勝手に伐採したりするなど、混乱が続いていました。
追放から1年が経ち、餓死者は40名を超え、追放者たちの状況はさらに悪化していったのです。
この間も、篠田源兵衛は追放者たちに多額の資金を提供し続けました。
また、石徹白豊前の妹婿であり彼の片腕だった上杉左門が、妻子と離縁し、追放された社人側に加わるという出来事も起こったのです。
この裏切りは追放者たちにとって希望となり、事態打開に向けて新たな訴訟の準備が進められることになりました。