寒村で起きた血で血を洗う騒動、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
住民が全員神職だった石徹白村
石徹白は、越前国大野郡の白山南麓、標高700メートルを超える九頭竜川上流域に広がる地域で、六つの在所に分かれていました。
この地域には、景行天皇の時代に創建されたと伝えられる白山中居神社があり、白山信仰の隆盛とともにその影響力を拡大していったのです。
平安から鎌倉時代にかけては、美濃側からの白山登山ルート上に位置することもあり、白山中居神社は隆盛を極め、石徹白の住民は全員が神社に属する「社人」として生活していました。
社人は三階級に分かれ、最上位である12名の頭社人は村や神社の重要事項を合議で決定していました。頭社人は基本的に世襲制であり、神主の地位は一年交代制であったと言われています。しかし、15世紀初頭になると白山中居神社は衰退し、頭社人の数は3名にまで減少したのです。そこで、郡上郡粥川村から児河合という人物が神主として迎え入れられ、その子孫が以後の神主を世襲することになりました。
16世紀に入ると、石徹白は朝倉氏の支配下に入り、神主の世襲制がさらに強固なものとなります。
朝倉氏の滅亡後、石徹白は金森長近や丹羽長秀の支配を経て、関ヶ原の戦い以後は北ノ庄藩、さらに貞享3年からは天領となりました。
貞享4年には白山中居神社の社領として田畑の年貢が免除され、住民には名字帯刀の特権が与えられたのです。
この特権はその後も郡上藩の支配下で継続され、住民は神社に対してのみ年貢を納め、郡上藩に対しては負担を負わないという特異な状況が続きました。
石徹白の村運営は、12名の頭社人の合議を基本とする体制でしたが、神主はその中でも筆頭の地位にあり、村の役人としての役割も担っていました。
15世紀に神主の家系が固定化されると、16世紀の朝倉氏の介入によってその世襲制が確立されたのです。
しかし、神主が村の権力を完全に掌握することはなく、頭社人の合議が引き続き村運営の中心でした。
世襲制の神主が権威を強化しようとする動きも見られましたが、村人たちは従来の合議制を維持し、神主が絶対的な権力を持つことを拒んでいたのです。
このように、石徹白の歴史は神主と村人たちとの間で権力のバランスを巡る闘争の一面を持ちつつも、独自の自治を築いてきました。