神社と寺の対立、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
神社と寺の対立
石徹白騒動の発端は、浄土真宗の勢力拡大を背景に、威徳寺の寺格昇格問題から始まりました。
石徹白は白山中居神社の社領で、住民は社人として神社に属していましたが、次第に浄土真宗の影響が広がっていったのです。
高山の照蓮寺に付属する道場として威徳寺が設立され、六代目看坊の恵俊は信者を増やし、寺を拠点にして永住を望むようになります。
恵俊は近隣の集落から寄付を募り、長年かけて威徳寺の本堂を完成させました。
その後、恵俊は東本願寺に威徳寺を照蓮寺の正式な掛所に昇格させるための願書を提出しましたが、実際には神主や郡上郡役所の了解を得ていないにもかかわらず、了承を得たと虚偽の報告をしました。
1752年、東本願寺は威徳寺を掛所に指定し、恵俊は石徹白の住民に承諾書へ捺印させるために偽りの情報を伝えたのです。
この事態に対し、石徹白神主の豊前は強く反発しました。
彼はかつて浄土真宗との関係が悪化していたわけではなく、寺の再建にも協力していましたが、威徳寺の掛所昇格は神事の衰退を招くと考え、これを拒否したのです。
豊前は上洛し、まず吉田家に願書を提出し、次に東本願寺にも抗議しました。
この抗議を受けて東本願寺は恵俊を尋問し、彼の虚偽の申請が明らかになり、恵俊は蟄居処分となったのです。
しかし、この一連の騒動が後にさらなる対立の火種となっていきました。