【綾町】明見神社の小さな慰霊碑:それは大きな奇跡とその代償の記憶
以前紹介した、成り立ちに切ない物語がある宮原地区の明見神社。ご神木の横には慰霊碑(記念碑)があります。これは誰を慰霊するためのものかご存じでしょうか?今回は、この神社に起きた信じられない出来事、そしてそれに関係した慰霊碑についてお話したいと思います。
・奇跡と悲劇が交差した1日
すべては大干ばつから始まった
明治25年の話です。「綾郷土史」によるとこの年は稀に見る大干ばつで、多くの農作物は枯れる寸前の状態でした。そこで当時の宮原地区の区長、上村善兵衛は、尾原、古屋、崎之田地区の区長、河野庄太郎と話し合いの上、雨乞いの祈願を行うことにしました。そして8月26日、区民を神社に集めて、雨乞いの儀が執り行われました。
祈りが通じたその時
雨乞いがどのような形で行われたのかは不明ですが、奇跡が起きました。空は突然曇り始め、大粒の雨が降り始めたのです。偶然なのか、祈りが神に通じたのかは分かりません。まさしく「神のみぞ知る」でしょう。
祈りの代償
雨乞いによってもたらされた、待ちに待った雨。区民はどれほど喜んだことでしょう。しかしその喜びもつかの間でした。天がもたらしたのは雨だけではありませんでした。雷鳴が空に轟いたのです。そしてなんと天の叫びのごとく、雷が神社に落ちました。不幸にもこの落雷により、区長の上村をはじめとする5名が亡くなりました。その名前をここに記します。
- 上村善兵衛
- 河野庄太郎
- 樅木一彦
- 入船福蔵
- 高松林助
「綾郷土史」より
なぜ雷が神社に落ちたのでしょう。神社は比較的高台にあります。加えてご神木の高さは18m。この高さと地形が雷を呼んだ可能性はあります。
落雷を目撃した方たちは、ショックを受けたでしょう。結果として犠牲者の命と引き換えに、農作物は救われたことになります。あれから130年以上が経ち、現在の宮原の田園風景があるのは、先人たちの祈りと尊い犠牲のおかげかもしれません。
祈りの果てに立つ記念碑
その後、区民は5名の冥福を祈り、後世に伝えるためにその年の10月、境内に記念碑を立てました。
記念碑には、稀に見る干ばつの年に雨乞いを行い、その奇跡と悲劇についての物語が刻まれています。命を落とした5名の名前と共に、このことを永遠に忘れ無いように記念碑を建てたとも記されています。明治時代の文体ですが、分かる部分だけでも奇跡的な出来事を感じ取れます。
なお、この碑文では「妙見神社」と表記されていますが、これが本来の名前です。その後昭和に入り、国富町の妙見神社と被るために「明見神社」となりました。
・小さい神社にある大きな物語
冒頭で少し触れたように、この小さい神社には「綾の乱」に関係した壮大な物語が秘められています(詳細は以前の記事を参照してください)。そしてそれから400年近くたった後にも、このようなドラマあったのです。
この記念碑の存在は、あまり知られていません。しかしかつて宮原を救った祈りの記憶が、ひっそりとここに刻まれているのです。記念碑はご神木のイチイガシそばにあります。
ぜひ参拝の際、探してみてください。そして刻まれた物語に触れてみましょう。手を合わせてあげると、犠牲者、そして関係者も喜ばれることでしょう。
明見神社
住所:宮崎県東諸県郡綾町大字入野4138番 (マップ)
駐車場:有
参考文献:「綾郷土史」
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