【綾町】知っていますか?綾護国神社の創建の謎:たった一人の名も無き兵士に捧げられた……
桜の名所でもある綾護国神社。この神社は、綾の陸軍歩兵、馬場小吉を祀るために明治8年(1875年)に創建されました。彼をきっかけに、多くの戦没者がこの地に奉られています。馬場小吉とはどのような人物でしょうか?まずはそのあたりから、境内を散策しながらお話ししましょう。
・馬場小吉について
馬場は綾に住む陸軍歩兵でした。彼は明治7年(1874年)の佐賀の乱鎮圧のために出征し、命を落としました。戦死したという記録は残っているものの、彼がどんな人物だったか、戦場で何が起こったのか、訃報を知って綾の人たちはどう思ったのか、実はなにも分かっていません。神社にも確認しましたが、まったく資料が残ってないそうです。
馬場小吉をめぐる謎と想像
なぜ彼一人のために神社が建てられたのか?綾からの戦死者は彼一人だったのかもしれません。あるいは護国神社にも明見神社のようなドラマがあったかもしれません。人望があり、多くの人が彼の死を悲しんだのでしょうか。戦いで大きな功績があったのでしょうか。実は婚約者がいて、彼女が神社創建関わっていたとか……史実が分からない分、想像が膨らみます。
招魂碑
馬場小吉を祀る招魂碑が建っています。彼の魂を慰めるために作られたもので、元々は現在の綾小学校敷地内にありましたが、後にここに移設されました。さて、彼が命を落とした佐賀の乱とは、いったいどのような戦いだったのでしょうか?
・佐賀の乱
佐賀の乱は明治7年(1874年)に明治政府に不満を持つ士族が起こした反乱です。中心人物は江藤新平と島義勇。決起した人数は約1万で、わずか1か月弱で鎮圧されます。政府軍の戦死者は200人弱。その中に馬場小吉も含まれます。
佐賀の乱の結末
捕らえられた江藤新平と島義勇は、形式だけの裁判で死罪の判決。そしてすぐに執行され、佐賀の乱は短期間で終結しました。2024年は佐賀の乱から150年。この戦いに対する再検討の動きもあるようです。
島義勇は北海道開拓の父だった
佐賀の乱の5年前の明治2年(1869年)、中心人物の島義勇は私の地元である札幌に赴き、そこで町の建設に着手しました。下は札幌市の地図で、道路が碁盤の目になっているのが分かると思います。これを設計したのが島義勇で、彼は北海道開拓の父と言われています。
馬場は政府軍に属しているので、佐賀の乱では島義勇とは敵同士でした。しかし地元札幌と綾が、薄いながらも意外な形でつながっているのは、非常に興味深いことです。
・のんびり境内さんぽ
訪れたのは2024年10月上旬。ようやく残暑も収まり、秋の始まりを感じます。秋風が心地よいですが、朝夕は肌寒いでしょうね。
ここが社殿です。まずは参拝。
斜め横から見た造形が美しいですね。
神社をめぐる景色
丘の上に位置しているため、町並みが一望できます。
招魂碑からは子供たちの遊び場である丘、ツキヤマが見えます。
裏側の出入口。駐車場はこちら側にあります。
・英霊たちの、やさしいまなざしの中
神社の裏側のツキヤマは小高い丘で、週末には元気いっぱいの子供たちが楽しそうに遊んでいます。
・綾護国神社:馬場小吉から始まる物語
地元から佐賀に赴いた一人の兵士。綾護国神社は彼を追悼する想いから建てられました。それからは、たくさんの戦没者が奉られるようになりました。改めて、馬場小吉とはどういう人だったのでしょうか。
「優しいお兄さん」
「怖い兵隊さん」
「とっても強かった」
いや、実は軍人らしからぬ、とても繊細な詩人かもしれません。子供たちをツキヤマで遊ばせた後、綾護国神社に寄って、親子でそんなことを語り合ってみましょうか。
最近6歳になったばかりの息子の考えはこうです。
「えらい人なんじゃない?えらいから神社建ててもらったんだよ。それにえらい人だから戦争に負ける(戦死する)なんて思ってなかったんだよ」
なるほど……筋は通っている。馬場さん、どうですかね?
綾護国神社
住所:宮崎県東諸県郡綾町大字南俣古城2825番地 (地図)
電話番号:0985-77-1874