【綾町】「綾の乱」の悲劇を秘めた歴史スポット:巨木と生きる明見神社
・神社に秘められた戦国絵巻
宮原地区の公民館裏にある明見神社は、今まで何も考えず、散歩中によく参りをしてました。ところが、色々調べているとこの神社、戦国時代の「綾の乱」と深い関係があるようです。まずは「綾の乱」についてお話ししましょう。
・「綾の乱」とは
時は戦国時代。日向国の戦国大名、伊東尹祐の女性問題から始まった跡継ぎを巡る騒動です。多くの人物が関与し、経緯は複雑ですが、ここではその概要を簡単にご紹介します(理解しやすいように脚色しています)。
登場人物
- 伊東尹祐(いとう ただすけ):
日向国の戦国大名、騒動の中心人物
- 桐壺:
尹祐の側室、嫡男を産む
- 福永祐炳(ふくなが すけあき)の娘:
後に尹祐の新たな側室となる
- 長倉若狭守(ながくら わかさのかみ すけまさ)、垂水但馬守(たるみず たじまのかみ):
家臣、綾の乱の主役
乱の始まり
日向の国の覇者となった伊東尹祐は、37歳となった今も正室との間に男子が生まれませんでした。そんな折、側室の桐壺が男子を産みました。尹祐はこれを大変喜び、宴を開き宣言しました。
「やっと男の子が生まれた!わしは決めた。この子を伊東家の跡取りとする」
ここで終われば、誰ひとり血を流すことはなかったでしょう。
ところがその5年後、尹祐は家臣である福永祐炳の娘をみて、その美しさに目を奪われました。しかし彼女は同じく家臣である垂水但馬守の妻でした。恋は人を狂わせます。尹祐は、この二人を無理矢理離縁させ、側室に迎えます。やがて彼女が身ごもると、とたんに桐壺との子への愛情は消えてしまいました。
「もし男子が生まれたら嫡男としよう。桐壺の子の嫡男は取り消しだ」
おそらく福永祐炳がなんらかを吹聴したのでしょう。実現すれば、当主の祖父となるのですから。
理不尽な決定に垂水但馬守、そして綾城城主の長倉若狭守は強く反対。孔子の言葉の引用しました。
「天無二日、土無二王」
(天に二つの太陽がないように、一つの国に2人の君主がいることはない)
一方、長倉から城主の座を奪う機会を狙っていた男がいました。名は稲津重頼。彼がこの状況を見逃すはずがありません。計略を図り、尹祐に嘘の情報を伝えます。信じた尹祐は長倉と垂水を謀反人とします。1510年9月、やむなく彼らは綾城に立てこもって抵抗します。
尹祐は自ら宮原に出陣し、そして1か月後の10月17日、ついに2人は観念して腹を切ります。これが「綾の乱」です。
・「綾の乱」その後
福永祐炳の娘は3人の男子を産み、長男の祐充が嫡子となります。彼は父、尹祐の死後、わずか10代前半で家督を継ぐことになります。幼い祐充の後見人となった福永祐炳は、権力を振りかざして横暴の限りを尽くします。しかし祐充は20代の若さで病死し、その後の内乱の末に福永は自害しました。後を継いだのは、祐充の弟である祐吉です。その祐吉は今、綾城に行き、何やら相談事をしているようです。何があったのでしょう?詳しくは以前の記事で紹介していますので、興味のある方はぜひご覧ください。
一方、稲津重頼は計画通り綾城城主の座につきました。彼が一番うまくやりましたね。
・明見神社
尹祐は自害した長倉若狭守と垂水但馬守、2人の霊を供養するために、その年の1510年に宮原にこの神社を創建しました。御祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。その小さな祠の中に秘められた、やるせない歴史。今では宮原公民館そばにひっそりと建っています。ちなみに尹祐はなぜ宮原に兵を向けたのかは、調べてもわかりませんでした。
綾中心部から入野橋を超えたあたりにある、宮原公民館の横に建っています。
公民館を過ぎると神社が見えます。
周りは木々で薄暗く、綾の乱の悲しさが伝わります。
高台に位置するので見下ろす光景も心に触れます。
・樹齢470年
神社が建てられたときに植えられたと言われるイチイガシ。推定樹齢470年で高さ18メートルの巨木です。なんだかパワーをもらえます。綾町指定天然記念物に指定されています。
・尹祐は何を思った?
忠臣の自害を尹祐どう思ったのでしょう?今となってはわかりませんが、いろいろな思いが交錯していたでしょう。小さな神社に込められた大きな想い。戦国の世の人間の織りなすドラマ。色々な想いを巡らせながら、この神社に行ってみませんか?
明見神社
住所:宮崎県東諸県郡綾町大字入野4138番 (マップ)
駐車場:有