最高齢の始球式か!? 97歳のひいばあちゃん、ひ孫のために投げた渾身の1球
■97歳のひいばあちゃん、初の始球式にドッキドッキ
「ドッキドッキ」。そう言ったあと、「ふふふふふ」と笑った。
始球式の登板前の気持ちを訊いたときの答えだ。「ドキドキ」ではなく「ドッキドッキ」と小さい「ッ」を入れるのが、とてもチャーミングである。
近藤美知子さん、御年97歳。1925年(大正14年)生まれで、6月2日に誕生日を迎えたばかりだ。
同5日、日本海オセアンリーグの石川ミリオンスターズ対福井ネクサスエレファンツの試合前。その「スペシャル始球式」を多くの人々が見守った。
アナウンスで紹介されると、球場には割れんばかりの拍手と歓声が響き渡った。近藤家の親族のみなさんはお手製のプラカードを掲げて応援している。
ひ孫の俊太郎さんに手を引かれてマウンドに向かい、打者役の川﨑俊哲選手と対峙した美知子さんは、田倉正翔捕手に向かって渾身の一球を投げ込んだ。
思いのこもったボールは、バウンドしながらもまっすぐに田倉捕手のミットに。直後、スタンドからも両軍ベンチからも大きな拍手が送られた。
■やっと実現した始球式
美知子さんは、ミリオンスターズで昨年まで4年間プレーしていた近藤俊太郎投手の曾祖母にあたる。
「2019年オフの契約更改のとき、端保(聡)社長から『BCリーグの中でも最高齢だと思うから、来年、始球式をしてみないか』という話をいただいた。そのときで94歳だった」と俊太郎さんがいきさつを明かす。
しかし、明けた2020年はちょうど新型コロナウイルスの感染が拡大し、開幕が2ヶ月以上遅れた上に無観客での試合開催を余儀なくされた。
「これまでも何度かやろうとしたときもあったけど、その度にコロナが広がって断念した。最初に話をいただいてから3年目の今年、お客さんも無制限に入場できる状態になって、やっと…」。
俊太郎さんも感無量といった面持ちだ。
■病床から復活
実はこんなことがあったと打ち明ける。
「ひいばあちゃん、2020年の秋口くらいにちょっと体調を崩したことがあった。リウマチや貧血が重なって、ほんと寝たきりになっちゃった。それが2ヶ月くらい続いたんで、僕もそのとき覚悟を決めたくらいで…。それで僕から端保社長に『前にいただいた始球式の話、お願いできないですか』って、もう一回お願いしたら『ぜひやろう』って言ってくださった。それをそのままひいばあちゃんに伝えたら、それまでベッドに寝たきりだったのに、そのときは座って『やるぞ、やるぞ』って言ってくれた」。
その姿に俊太郎さんはビックリした。そして嬉しくなった。
「病は気から」とはいうが、高齢でここまで臥せっていた美知子さんにモチベーションができた。「ひ孫のため」という大きなモチベーションだ。
「ひいばあちゃん、病院嫌いで『病院に行こう』『注射しよう』『輸血しよう』って言っても、これまでは『いや、行かん。行かんとこのまま、この家で自分の人生を終えたい』なんてことをずっと言ってたのに、始球式のことを伝えてからは病院にも行って、リハビリにも通うようになってくれた」。
美知子さんはみるみる変わった。どんどん元気を取り戻していった。
体調が回復しだしてから、冬を迎えた。「高齢者ってどうしても冬場は外に出ないんで、体調が悪くなりがち。なのですごく不安だったけど、寒い中でも体調いい日はしっかり歩いてくれた」と、懸念していた冬場も乗り越えることができた。
「覚悟を決めたころは、ほんと僕自身もつらかったし、ひいばあちゃんも『一回“あっち”向いた』って自分で言うくらいだった。それが始球式の話をもらってから『“あっち”向かんと“こっち”戻ってこれた』って言ってくれる。こういう話をくださった端保社長、こうやって機会をくださったみなさん、そしてリハビリの先生もキャッチボールに付き合ってくださって、ほんとに周りの人たちにすごく支えられて今日の始球式を迎えられた。もう感謝の気持ちでいっぱいですね」。
そういったさまざまな思いがあったから、俊太郎さんは「マウンドで泣きそうになった」と吐露する。
■「俊太郎が言うがから」
美知子さんがここまで頑張れたのは「やっぱし俊太郎が言うがから」と、ひ孫の頼みにはなんとしても応えてやりたいという思いがあったようだ。
若いころからとくにスポーツをしてきた経験があるわけではなく、これまでも運動は「なんもしとらん」かったが、この日のために練習を重ねた。
「俊太郎が教えてくれとるから。『手首で投げるな。腕伸ばして』って、あの子が教えてくれたもんで、それでちょっと家で練習しました。ふふふ」。
その練習の成果については「まぁ投げれたっちゅうことは、(成果が)あったがいと思う。ねぇ」と言って笑顔を見せる。
肘がしっかりと上がっていて、“コーチ”に教わったフォームでの投球は見事だった。
スタンドからの声援は届いていたのか尋ねると、「全~然。パーッとね。あはははは」と笑い飛ばした。
「ドッキドッキ」して耳を傾ける余裕はなかったが、それでも「グラウンドに出たら、やっぱしね。『投げんなん』と思うから」と、ひ孫のためにという一心で必死に投げた。
ひいばあちゃんがひ孫を思う気持ち、そして、ひ孫がひいばあちゃんを思う気持ちが、この始球式を実現させたのだ。
■どんな日もスタンドで応援
美知子さんは、小学1年で野球を始めた俊太郎さんの一番のファンでもある。ミリオンスターズに入団後も、俊太郎さんの登板する試合はいつも見に来てくれていた。
「見えるんですよ、拝んでるのが(笑)」と俊太郎さんは振り返る。
俊太郎さんが投げているときは、「ケガせんと。とにかくケガせんと頑張ってほしいと、いつもそう思ってた」と祈るような気持ちどころか、まさに祈りながら見ていた美知子さん。
どんなに暑い日でも、屋根もないスタンドで応援する。心配した球団スタッフが涼しい部屋を用意しても、断って必ず外で見守るのだ。
始球式をしたこの日も風が冷たく冷え込んだが、「大丈夫」と言い、俊太郎さんからプレゼントされたミリオンスターズのキャップとユニフォームをまとって最後までスタンドで観戦した。
ひ孫はもうプレーしていなくても、「野球を見ることが好きやし」と観戦を楽しんでいた。
かつて美知子さんが観戦していると、こんなことがあったという。
「90いくつになった者がスタンドで野球見て応援しとるさけ、『なかなかこんだけの年でスタンドに来れる人はおいでん』って。ほんで『おばあちゃんに、あやからんなん』ちゅうて、『握手してくれ』っちゅう人がおったよ。ふふふふふ」。
たしかにお元気で、ずっとニコニコしている。言葉もハキハキとして、話すたびにころころと笑いがこぼれる。あやかりたくなる気持ちはよくわかる。
長生きの秘訣はと訊いてみると、「俊太郎が相手をしてくれること」だという。ひ孫が愛おしくてしかたないのだ。ひ孫も「幸せです」と照れながら喜ぶ。
■苦しいことの多かった現役時代
俊太郎さんは金沢星稜大学を卒業後、2018年にミリオンスターズに入団した。185cmの高身長から繰り出される最速146キロのストレートを武器に、BCリーグで活躍した。
「ホーム開幕戦はけっこう調子いい感じでいけたけど、次の週に肉離れしちゃった。その後、5月下旬に1ヶ月で復帰できたけど、今度は7月の頭に肩関節唇損傷をやっちゃって、試合中に」。
手術に踏みきり、リハビリが続いた。
「そこから700日勝てなくて、次に勝てたのが2020年の最初の登板だったんで、かなりしんどかった」。
まったく勝てなかった2019年は本当に苦しかったという。
「ボッコボコにされた。自分のボールがまったく投げられないし、球速もマックスが132キロくらいまでしか出ない。常時120キロ台とか、ほんとにひどかった。僕もどうやって投げてるかわかんなくなっちゃっていた。トレーニングも積めていると思ってたし、リハビリも片田(敬太郎コーチ)さんとしっかりやってたけど、なかなか難しくて…」。
もがく日々の中で活路を見出したのが、2019年オフの上半身のウエイトトレーニングだった。
「初めて上半身の筋トレを始めた。それでちょっと締めるというか、緩くなりすぎていたのを一回締めてから投げられるようになって、なんとか143キロくらいまでは戻せた。ずっと片田さんとの二人三脚の時間だったけど、めっちゃしんどかった」。
そんなひ孫のもがく姿も、ひいばあちゃんは察していたのだろう。だから、登板するときは手を合わせて「ケガしないように」と祈りながら見るのだ。
そしてひ孫も、ひいばあちゃんが見てくれるからこそ、くじけそうになっても、どんなにつらくても、諦めずに頑張り続けることができたのだ。
「もう一回、復活したいっていうのが自分の中にあった。2019年オフに始球式の話をもらったし、2020年は絶対に自分のピッチングができるところまで復活して、毎試合見に来てくれるひいばあちゃんに応えたいなっていうのがあった。ひいばあちゃんが、間違いなく僕自身のモチベーションになっていた」。
だから、復活星を見せて喜ばせることができたのは、本当に嬉しかった。
■「ご苦労さん」の一言
そして昨年限りでユニフォームを脱ぐことを決めた。いいときも悪いときもすべて見てくれていたひいばあちゃん。復活する姿も「一番見たかったのはひいばあちゃん」と俊太郎さんもわかっていた。だから、引退を告げるのは心苦しかった。
「個人的にはもう限界だなっていうのがあった。でもなかなか伝えられずにいて、やっと言えたのが8月くらいだったかな。『今シーズンで辞めるね』って」。
すると、ひいばあちゃんはたった一言だけ「ご苦労さん」と言ってくれた。小さいころからずっと頑張る姿を見て、応援してくれていたから、すべてを話さなくても何もかもわかってくれているのだ。
「ご苦労さん」―。この一言にこめられたさまざまな思いを感じ、俊太郎さんはこぼれそうになる涙をグッとこらえた。
■現在は球団職員としてマルチに活躍
引退後、俊太郎さんはチームスタッフとしてミリオンスターズに残って働きだした。
愛するチームを「石川県内にもっと浸透させたい」という思いを持っている。現役中から続けている小中学生のスクールコーチとしても、さらに深く関わっていきたいとも願っていたので、「端保社長に『残ってくれないか』と言われてありがたかった」と喜んで現職に就いた。
試合がある日は運営やイベントのMCを担当し、ときには中継の解説者としてマイクの前に座る。そして試合のない日はスポンサーの元へ営業に出向く。
また、映像を編集してナレーションを入れ、YouTubeに投稿することも俊太郎さんの仕事だ。もちろんスクールのコーチも続けている。
「いろんなことをさせてもらっている。自分自身が住んでいる県にプロスポーツがあるってすごいことだと思うので、こうやってちょっとずつコツコツ積み重ねて、もっともっと広めていくことができればという思いで活動している」。
石川県内での認知度も、まだまだ十分とは言えない。集客数ももっと伸ばしたい。選手の人気も高めていきたい。そのためにできることは、今後も積極的に取り組んでいくつもりだ。
■日本舞踊との“二刀流”
そして俊太郎さんにはちょっと珍しい側面もある。なんと野球と並行して日本舞踊も続けているのだ。小学1年で始めた野球より早く、3歳から習い始めた。
「中学生になって部活動が入ってくると、なかなか踊りに対して時間を割くことができなくなっていったけど…。今も舞台のお話をいただいたら、だいたい2ヶ月くらいは稽古して舞台に入るようにしている。2018年のオフにも舞台に出させていただいた。またそういう機会があったら、やりたいと思う。踊りもひいばあちゃん、好きなんで(笑)。ずっと見てくれていた」。
野球をする姿は見せられなくなったが、舞台ではまだまだひいばあちゃんを喜ばせることができる。
ちなみに美知子さんは相撲も大好きだとか。かつて松井秀喜選手の活躍に夢中になっていたように、現在は遠藤関に声援を送る。同郷のアスリートを応援したいそうだ。
そして、そんな美知子さんのことが、親族はみんな大好きだ。
「ウチの一族はひいばあちゃんが中心で、みんなひいばあちゃんに会いたくて集まってくる」と、親族にとってとてつもなく大きな存在で、ずっとずっと長生きしてほしいと、みんなが願っている。
■最高齢の更新を狙う
大役を終えたあと、美知子さんに感想を聞くと「やれやれ、やね」と言って、高らかに笑った。明るい。底抜けに明るい97歳だ。
球団の始球式史上最高齢であることは間違いない。定かではないが、日本国内では98歳が最高齢という記録もあるようだ。となると来年また美知子さんが実施すれば、国内タイ記録か。
球場を出るときに見送った俊太郎さんが「来年投げたら日本一やぞ」と声をかけると、「頑張る」と笑顔で答えた美知子さん。
来年のタイ、そして再来年の単独トップもぜひ狙ってほしい。これほどまでにひ孫を愛するひいばあちゃんなら、やり遂げてくれそうだ。
「また来年できるように僕も頑張りたいし、ひいばあちゃんにももうちょっと頑張ってもらって、またこういう日が来たらいいなと思う」と俊太郎さんも意気込む。
温かいひいばあちゃんと、その愛情を受けるひ孫。二人にとって新たな目標ができた。来年、再来年、さらにその先と、更新を楽しみにしたい。