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「中東唯一の民主主義国家」イスラエルの騒乱――軍やアメリカも懸念する司法改革とは

六辻彰二国際政治学者
イスラエル議会周辺で行われた司法改革に反対する抗議デモ(2023.7.24)(写真:ロイター/アフロ)
  • イスラエルではこれまで政府のチェック機関だった最高裁の権限を縮小させる法案が成立し、三権分立が骨ぬきにされた。
  • この法案成立に各地で抗議デモが発生しており、イスラエルを代表する企業からの批判も相次いでいる。
  • こうした批判の背景には「戦争を先導しながら兵役につこうとしない」宗教保守派を政府が優遇することへの不満もある。

 徴兵制の復活を叫ぶ高齢者のように安全地帯から勇ましい主張をする人々はどの国でもいるが、それが政府ぐるみになった時、拒絶反応が湧き上がるのは不思議でない。

「欧米の飛び地」に広がる抗議デモ

 欧米の政府や研究者はしばしばイスラエルを「中東唯一の民主主義国家」と呼ぶ。専制君主国家や事実上の軍事政権が林立する中東において、イスラエルは「欧米の飛び地」のようにみなされてきたともいえる。

 しかし、そのイスラエルでは反政府デモが拡大し、ビジネス界や軍をも巻き込んだ政府批判が噴出している。

 その焦点は司法改革にある。

 イスラエル議会は7月24日、司法改革法案を可決した。これを前に数万人のデモ隊が議会周辺に詰めかけるなか、120人の議員のうち64人の僅差の賛成多数により、法案は可決された。

 この改革の眼目は、最高裁の権限を弱めることにある。

 イスラエル議会は一院制で、これまで最高裁が議会に対するチェック機関の役割を果たし、法的に「不適当」と判断された法案が廃止に追い込まれることも珍しくなかった。

 これに対して、ネタニヤフ政権は「国民に選ばれた議会の決定を国民に選ばれていない裁判所が覆すことはおかしい」と主張し、最高裁が法案に介入できる法的根拠を排したのである。

 今回の司法改革に続き、秋には裁判所の人事により深く政府がかかわることを認める法案が採決にかけられる見込みだ。

権威主義体制への懸念

 民主主義の原理に照らせば、ネタニヤフの主張はもっともらしく聞こえる。しかし、それ論理は裏を返せば、選挙で勝ちさえすれば、政府が何を決めても、誰も止められないことを意味する。

 三権分立を欠いた民主主義は「多数者の暴政」を招きかねない。1933年の選挙に勝って政権を獲得したナチスがユダヤ人排斥を合法的に決定したことは、その象徴だ。

 近年の欧米では多様性の尊重に逆行し、「強い政府」を求める気運、言い換えると「自由を制限するむき出しの民主主義」の兆候が鮮明である。ポーランドやハンガリーではイスラエルと同様の司法改革が行われ、身内のEUからも批判を浴びてきた(なかでもハンガリーのオルバン首相はロシアのプーチン大統領に近い立場にある)。

 イスラエルの場合、ネタニヤフ首相が2019年に汚職などの容疑で起訴され、裁判が現在進行形で続いていることも、司法改革への批判を強める背景になった。

 そのため、今年1月に司法大臣が改革案を発表した直後、最大都市テルアビブで数万人の抗議デモが発生し、それを皮切りに抗議活動は各地に広がってきたのである。

 そのなかで警察はしばしば放水銃や閃光弾なども用いてデモ隊を鎮圧してきた。

イスラエルを分断するもの

 ネタニヤフ政権への批判は広範囲にわたり、7月24日にはイスラエルを代表する150の民間企業は共同で司法改革に反対した。また、「中東のシリコンバレー」とも呼ばれるイスラエルではICT系を中心とするスタートアップ企業が多いが、その連合体の調査によると、加盟企業の約70%が社会不安などを理由に国外移転を検討している。

 こうした抗議は、政府の権威主義化だけが理由ではなく、そこにはユダヤ教保守派に対する優遇への反発も見受けられる。

 旧約聖書の記述をそのまま受け止めようとするユダヤ教保守派は超正統派とも呼ばれる。

 最高裁はジェンダー平等や性的少数者の権利保護などで、これらに否定的な超正統派としばしば対立してきたが、そのなかでも最大の争点の一つが徴兵制の免除だった。

 独立以来、周辺のアラブ諸国と対立してきたイスラエルでは男女とも徴兵制の対象になるが、いくつかの免除条項がある。ユダヤ教徒でもとりわけ信仰に忠実な超正統派であること、なかでも神学校で学んでいることはその一つだった。

 マイノリティの信仰と徴兵制が摩擦を招くことは珍しくない。ナチスによる徴兵を拒絶した「エホバの証人」がヒトラーに粛清されたことは、その典型的な事例だ。

 イスラエルでは独立当初、超正統派がごくわずかしかいなかったため、この免除は受け入れられやすかった。

 しかし、1970年代からの宗教復興により、超正統派は現在、全人口の10%程度を占めるに至っている。それにつれて世俗派の不満は大きくなり、2014年には当時連立政権の一角を占めていた中道右派政党の主導で、超正統派に対する免除が法的に廃止された。

 ところが、その後ネタニヤフ政権がより一層右傾化するなか、超正統派の免除の再導入を提案する政治家はしばしば現れたが、その度に裁判所はこれを阻んできた

 かつてと異なり、超正統派に基づく右派政党は今やネタニヤフ政権の中核を担っており、イスラエル政治の本流に近い位置にある。それにもかかわらず徴兵制が免除されれば、マイノリティに対する配慮というより発言力を背景にした特権といった方が良い。

戦争を主導するが兵役は免除される

 そのうえ、超正統派の台頭はイスラエルの攻撃的とさえいえる外交方針の一因ともなってきた。

 イスラエルとアラブ、イスラーム世界との間で最大の懸案といえるパレスチナ問題で、ネタニヤフ政権は一切の妥協を認めない方針を強めている。

 今年4月、イスラエル警察は東エルサレムにあるアル・アクサ・モスクを襲撃した。信者が重傷を負わされた映像は国際的に批判を集め、国連のグテーレス事務総長は「ショックで愕然とした」と述べ、アラブ連盟は「イスラエルの犯罪」と批判した。

 イスラエルはパレスチナの分割を定めた国連決議に反して、エルサレムの東半分を含むヨルダン河西岸地区を実効支配し、ユダヤ人を入植させてきた。この「占領政策」は1990年代頃から超正統派が力を増すにつれ、エスカレートしてきた

 現在のパレスチナ一帯は、旧約聖書で「神がユダヤ人に与えると約束した土地」と記されるカナンに当たる。ユダヤ教の教義にあくまで忠実であろうとする超正統派はこの記述をより所に、パレスチナを人間の都合で分割してはならないと主張する。

 「神との約束」を持ち出して国連決議をも無視し、実効支配を続けることは、当然のようにアラブ、イスラーム世界の反感を招き、それ以外の国からも懸念を招いてきた(超正統派や神学生のなかにも占領政策に反対する声はあるがかなりの少数派)。

 要するに、超正統派の多くはパレスチナとの対決を先導してきたわけだが、長年徴兵制を免除されて自らはその対決の最前線にほとんど立ってこなかった

 先述のように、この徴兵制免除は廃止されたが、再導入すべきという右派政治家の圧力を阻んできたのは最高裁である。

 こうしてみた時、三権分立を制限する今回の改革に、超正統派以外、とりわけ世俗的な有権者の不満を呼んだとしても不思議ではない。

軍からの反対意見

 超正統派の優遇には最前線に立つ軍からも反対の声があがっており、ネタニヤフ政権の司法改革に反対する1000人以上の予備役が職務放棄を宣言した。

 こうした状況にハレビ参謀総長は7月23日、兵士に当てたメッセージで「危険な分裂」に警鐘を鳴らした。「我々が強固な軍隊でなくなれば、我々の国はなくなる」。

 これは一見、兵士に自重を求めるメッセージだが、分裂を大きくした政府への苦言とも受け取れる。

 独立以来、常にイスラーム世界と戦ってきたイスラエルにとって、軍が国家のより所であるだけに、ハレビ参謀総長の懸念は杞憂ではないだろう。そのため、イスラエル最大の同盟国として「占領政策」を事実上黙認してきたアメリカでさえこの問題を無視できず、バイデン政権はしばしば「司法改革への懸念」を表明してきた。

 支持基盤を優遇するあまり国家そのものの行方をも危うくしかねないことは、民主主義であるかどうかに関係なく、往々にして発生する。しかし、イスラエルのそれはパレスチナとの対立、ひいてはイスラーム世界との対立をも招きかねない。

 「イスラームの盟主」とも呼べるサウジアラビアは、ライバルであるイランを抑制するため一時イスラエルと接近したが、今年3月にイランと国交を回復し、急ピッチで関係改善を進めている。それは入れ違いに、イスラエルとの短い蜜月が終わったことを示唆する。東エルサレムのアル・アスク・モスクをめぐる問題で、サウジ政府はイスラエルの「挑発行為」を非難している。

 こうした緊張をよそに、「戦争を先導するが自分は戦争に行かない」イスラエルの一部の有権者が声を大きくすることは、いわば中東情勢をより緊迫させかねない。イスラエルの司法改革は、いわば内輪の論理が全体を危うくする好例といえるだろう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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