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わずか4年足らずで消えた日本初のトロリーバス 日本無軌道電車の廃線跡を辿る(兵庫県川西市・宝塚市)

清水要鉄道・旅行ライター
日本無軌道電車 当時の絵葉書より

 令和6(2024)年11月30日、立山トンネルトロリーバスの運行終了をもって日本からは全廃されたトロリーバス。見た目はバスながら、架線からトロリーポールで集電して電気で走る、れっきとした鉄道の仲間だ。

 そんなトロリーバスが日本で初めて営業運転されたのは、兵庫県川辺郡川西町(現:川西市)と川辺郡西谷村(現:宝塚市)に跨って走っていた日本無軌道電車線。新花屋敷温泉という温泉・遊園地へのアクセス路線として昭和3(1928)年8月1日に開業したが、経営不振により昭和7(1932)年1月に早くも運行を休止、同年4月1日に3年8か月の短い歴史に幕を下ろした。日本のトロリーバス96年の歴史に終止符が打たれた今、その歴史の始まりとも言うべき日本無軌道電車の廃線跡を辿ってみることにしよう。

花屋敷駅跡を通過する阪急宝塚線
花屋敷駅跡を通過する阪急宝塚線

 阪神間でも屈指の高級住宅街として知られ、鉄道ファンにとっては阪急宝塚線の普通電車の折り返し駅として馴染み深い雲雀丘花屋敷駅。元は雲雀丘駅と花屋敷駅の二つの駅に分かれており、川西能勢口寄りの花屋敷踏切の所がかつての花屋敷駅跡だ。上写真だと電車の右側に見える車道の辺りに駅舎があった。

花屋敷停留所跡
花屋敷停留所跡

 日本無軌道電車の起点があったのは、花屋敷駅跡から坂道を北に百数十メートル行った地点で、現在の阪急バス花屋敷停留所付近にあたる。今でこそ何の変哲もない閑静な住宅街だが、トロリーバスの現役当時には方向転換のための転車台が設けられていたとのことだ。

花屋敷~つつじが丘間の急坂
花屋敷~つつじが丘間の急坂

 花屋敷停留所を出たトロリーバスはほどなく川西町と西谷村の境界を越え、急坂に差し掛かる。この急坂こそが、この地にトロリーバスが導入された理由の一つだった。現在は車道として勾配が緩和されているものの、トロリーバスが走っていた当時のこの坂の再急勾配は142パーミルで、レールを走る鉄道や性能の悪かった当時のバスには到底登り切れるものではない。箱根登山鉄道の再急勾配が80パーミル、大井川鐡道井川線の再急勾配が90パーミルと書けば、トロリーバスがいかに険しい坂を登っていたのかがわかるというものだ。

花屋敷~つつじが丘間より坂下を望む
花屋敷~つつじが丘間より坂下を望む

 振り返れば川西能勢口駅周辺のビル街の向こうに、生駒の山並みが見える。宅地開発が進んで建てこんだ現代ですらこれだけの絶景が望めるのだ。トロリーバスが走っていた90年前には、大阪平野を遠くまで見晴るかすことができたのではないだろうか。

つつじが丘停留所跡
つつじが丘停留所跡

 急坂を登り、右カーブに差し掛かるとつつじが丘だ。阪急バスつつじが丘停留所の付近に日本無軌道電車唯一の中間駅があった。ここで上下のトロリーバスが行き違いをしていたとのことだが、花屋敷停留所同様に痕跡は見られない。

万年坂の地蔵石仏
万年坂の地蔵石仏

 つつじが丘から先も急坂が続く。この坂は「万年坂」と言い、右手には鎌倉時代後期のものとされる、花崗岩に彫り込まれた地蔵石仏がある。700年もの間、坂道を行き交う旅人を見守ってきた地蔵にとって、4年足らずで消えたトロリーバスの歴史は一瞬のことに過ぎなかったことだろう。

万年坂を下る阪急バス
万年坂を下る阪急バス

 トロリーバスと同じルートを辿る阪急バスはこの急坂を難なく登り、そして下っていく。戦前のバスの性能の低さが日本初のトロリーバスの誕生に繋がったわけだが、戦後のバスの性能向上は著しく、大阪や東京のような大都市からもトロリーバスを駆逐してしまった。

 ちなみにだが、この阪急バスは雲雀丘花屋敷駅の統合による開業とともに走りはじめたもので、トロリーバス廃止後の沿線住民はバスの開通まで花屋敷駅まで歩いて行っていたそうである。

新花屋敷停留所跡
新花屋敷停留所跡

 万年坂を登りきるとほどなく、終点の新花屋敷だ。現在は阪急バスの長尾台停留所になっている。道はこの先、川西市の飛び地にある古刹・満願寺に続いており、トロリーバスもその山門前、多田神社を経て能勢電鉄多田駅まで延伸する計画があったが、実現せずに終わっている。

新花屋敷停留所跡
新花屋敷停留所跡

 「峠」と掲げられた旧喫茶店の位置には、新花屋敷温泉土地株式会社の本社があり、その左の駐車場の位置にはトロリーバスが方向転換をするためのループ線があった。地元自治会のホームページに当時の写真があるので見比べてみると、90年の歳月での変化に驚かされる。

日本初のトロリーバス - 宝塚市ふじガ丘自治会

車庫跡に残る煉瓦
車庫跡に残る煉瓦

 本社跡から道路を挟んだ反対側、バス停のポールとベンチが置かれている駐車場はトロリーバスのホームと車庫があったところだ。よく観察してみると古そうな煉瓦が遺跡のように残っているのがわかる。この煉瓦こそが日本無軌道電車の唯一の遺構だが、あまり顧みられている様子はない。

 長尾台からさらに西の、今では「ふじガ丘」という住宅街になっているところは、大正末期から昭和初期にかけ、天草出身の実業家の田中数之助(明治9~昭和4)によって開発された「新花屋敷温泉」があったところで、温泉と遊園地を併設した山の中のリゾート施設だった。

 久留米絣の販売により一代で富をなした田中は、山の中の小さな門前町にリゾートと巨大な田園都市をつくりあげる壮大な構想を持っており、新しい乗り物だったトロリーバスは、彼の夢の園へのアクセス路線としての使命を担っていたのである。

日本無軌道電車の後ろ姿(『日本地理風俗大系第8巻』昭和6年 新光社 より)
日本無軌道電車の後ろ姿(『日本地理風俗大系第8巻』昭和6年 新光社 より)

 日本初のトロリーバスはその物珍しさもあって当初は注目を集めたものの、昭和恐慌の不景気もあって利用は低迷。おまけにタイヤが硬く、振動が直接伝わって乗り心地がよくなかったことから、トロリーバスは乗客からはあまり好評ではなかったとの話も残っている。また、運賃(片道10銭、往復15銭)が高いことから、上りだけ乗って下りは歩く乗客も多かったようだ。

 日本無軌道電車を運行していた新花屋敷温泉土地株式会社は、土地の分譲を本業とする会社だったが、不況の影響で土地の分譲は進まず、経営は悪化の一途を辿った。金策に追われた社長の田中は昭和4(1929)年11月21日の出社を最後に失踪、南海本線大和川踏切で列車に飛び込み自殺したことが翌月になって判明した。

 トロリーバスの営業は田中の死後も続けられたが、昭和7(1932)年1月に休止となり、ついに同年4月1日に日本初のトロリーバスはわずか3年8か月の短い歴史に幕を下ろしたのであった。奇しくも同日には日本で二番目のトロリーバスである京都市営無軌道電車が四条大宮~西大路間で運行を開始。日本におけるトロリーバスの歴史は以降途絶えることなく、令和6(2024)年12月1日の立山トンネルトロリーバス廃止まで続くこととなる。

 日本から最後のトロリーバスが消えた今、その嚆矢たる日本無軌道電車に思いを馳せてみるのはいかがだろうか。廃線跡は坂こそきついものの、距離はわずか1.3キロなので歩いてみるのもいいだろう。ただし、周辺は閑静な住宅街のため、散策の際には住民への配慮も忘れないようにしよう。

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鉄道・旅行ライター

駅に降りることが好きな「降り鉄」で、全駅訪問目指して全国の駅を巡る日々。

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