定宿の子供たちにとっては「気さくなおじさん」だった志村けん 生前、果たせなかった約束とは――。
再建された現在の「べにや」
平成三十(二〇一八)年五月に全焼した「べにや」が再建したのは令和三(二一)年七 月。三年以上の時間を要した。そして同二(二〇)年三月に亡くなった志村けんがふたたび「べにや」に来ることはなかった。あれほど「べにや」再建を心待ちにしていたのに─ ─。
私が「べにや」を訪ねたのは、令和四(二二)年、関東が梅雨入りした日。
あわら温泉 では小雨が降り、空気中の埃を洗い流し、大気が潤っていた。
再建された玄関の庭先に、焼失を免れた「べにや」の看板が掲げられてあった。飛び石 を渡り、上がり框で靴を脱いで館内に入る。真新しい畳が心地よく、ロビーからは火災から残った庭が見えた。
新しい「べにや」は平屋で、個性ある一七室が作られた。以前からの庭を囲むように
客室が並び、庭の見え方は部屋ごとに異なる。
ロビーのすぐ横には調理場がある。調理場はガラス越しに中が見えるようになっており、 奥では料理人が神経を研ぎ澄ました表情で仕事をしていた。
「再建にかかるお金や旅館経営を考えたら二階建てにして、もう少し客室を作り、効率的な方が良いのではないかと悩みました。でもそれぞれのお部屋でお食事を楽しんでいただきたかったですし、料理を運びやすいようにと調理場を客室の近くに設けました」と女将が話す。
加えて、全客室に温泉を引くために、温泉の湧出量に見合う部屋数にしたことも 理由に挙げられる。奥村夫妻には「日本の旅館文化を守りたい。子どもたちの記憶に、旅館体験を残したい」という純粋なまでの想いがある。
部屋に籠る志村けんが仕事人の顔を見せたのも、食事を運ぶあい子さんとの会話だ。
女将は「お客様は家族同様に考えています」と語る。
その気持ちがお客に伝わり、再建 を促す二〇〇〇通もの応援の手紙となったのだ。
志村けんもまた、「べにや」の子どもたちには「気さくなおじさん」という存在だったのだろう。
「芸能人の皆さんの多くは、お正月にはハワイに行かれますよね。志村さんはなぜうちを お選びいただいたのでしょうかね」と女将は不思議そうにするが、奥村夫妻の確固たる旅 館イズムに、職人気質の志村けんが共鳴したのではないか。
新生「べにや」の「呉竹」は、火災前の「呉竹」とほぼ同位置に再建されたので、志村けんが眺めた庭がそこにある。
「呉竹」の座敷に座る。雪見障子を開けると庭が見渡せた。もっこりとした苔の上に、椎 の木や松や青紅葉の木々が生き生きと茂る。木々の葉には雨の粒がしたたり、葉が潤いを 得てワントーン明るく見えた。
木造建築だからこそ、雨がしたたり落ちる音は優しく響き、窓を開ければ、風が通り抜 けた。木と土壁の匂いが鼻孔をくすぐった。木造建築の独特の香りからも、女将が守ろう とする「日本旅館」を体感できた。
志村けんは、どれほど完成を待っていただろう。どれほど来たかっただろう。
ふと、「呉竹」で、志村けんがにこにことしながら様子を見に来ている気配がした。
ねえ、志村さん。
「べにや」は前を向いて頑張っていますよ
※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。