『映画 鈴木先生』が描く日本社会の縮図──正しい動機で正しくない行動をする存在
「無敵の人」という表現がネットスラングとして人口に膾炙したのは、2000年代後半からだった。それは、非行や犯罪歴のない人物が突然ある日、凶悪犯罪を起こすケースが目立ってきたからだ。凶悪犯罪自体が減る一方で、そうした突発的な凶行は現在まで目立っている。
『映画 鈴木先生』はそうした事態が生じる状況をしっかりと描いた秀作だ。いつ起こるかわからない突然の凶悪犯罪において、この作品はそれを引き起こした日本社会の状況を考える大きなヒントとなる(初出:朝日新聞社『論座』2013年1月24日)。
社会のひな形としての中学校
『映画 鈴木先生』は、全国35スクリーンの規模で公開された。ドラマの映画化としては、非常に規模が小さい。その理由は簡単だ。2011年4~6月にテレビ東京系で放映されたドラマ版の平均視聴率が2.06%と極めて低かったからだ。
しかし逆に考えれば、この映画化がいかに異例だということもわかるだろう。映画化されるほどクオリティが高く、熱心なファンがいたからである。事実、民放連賞・テレビドラマ番組部門最優秀賞やギャラクシー賞テレビ部門優秀賞などを受賞し、DVDセールスも好調だった。
原作は武富健治によるマンガである。全11巻で中学2年生の1クラスの1・2学期が、主人公である青年教師・鈴木先生を中心に描かれる。
2006年、突然登場したこの作品は当初から大きな注目を浴びた。70年代の劇画を連想させる独特なタッチはもちろんのこと、教え子に密かに欲情している鈴木先生などコメディとしての魅力もあるが、やはりその特徴は、生徒たちの間で起こる事件を鈴木先生がいかに解決に導くか、そのプロセスにあった。
事件と言っても、外部から見ればそれは中学校という小さな世界で起こるコップの中の嵐でしかない。しかし、『鈴木先生』の醍醐味は、このコップの中の嵐を入念に描き込み、大人である鈴木先生の煩悶を通すことで、それが社会問題と同根を持つことを顕わにするところにある。
つまり、社会のひな形としての中学校を描くことに成功した。ドラマ版も、こうした原作の魅力を維持しながらも、独自の映像テイストを加えた自然な実写化に成功していた。
余剰(グレーゾーン)の可能性
今回の映画版は、冒頭のタイトルバックに「Lesson11」(第11話)と出るように、ドラマのその後を描いた物語だ。単行本では8~11巻における「生徒会選挙」と「神の娘」を原作としている。脚本家・古沢良太によって2時間に再構成された映画は、原作を損なわないどころか、2編を組み合わせたことによって『鈴木先生』の本源的なテーマをより一層鮮明にさせた。
生徒会選挙では、鈴木先生(長谷川博己)の同僚である足子先生(富田靖子)が、前回の選挙での無効投票の多さを疑問視し、「全員参加で実現する公正な選挙」との標語を掲げる。あまりにも無効票が多ければ記名による選挙のやり直しが決められ、鈴木先生も疑問を抱きながらも賛同する。
一方、学校の近所の公園では、過去に中学の同級生だったユウジ(風間俊介)と満(浜野謙太)の青年ふたりが、ベンチに座ってタバコを吸う日々を送っている。半ば引きこもり状態で、自宅にも居づらくなっている彼らにとって、公園は息抜きができる唯一の場所だ。しかし、足子先生の要請により、そこにも「不審者出没注意」との看板が置かれ、灰皿は撤去される。
並行してまったく無関係かのように進むこの2編だが、その底流を成すのは同じテーマだ。一言であらわせば、それは「余剰(グレーゾーン)の可能性」である。しかも、それは国民や市民も参加する選挙や、誰もが共有できる公的空間という、強い一般性を持つ題材で描かれる。
余剰の排除によって失われること
生徒会選挙のプロセスで思い出されるのは、2012年末に行われた総選挙や、それから3日後に行われた韓国の大統領選挙だ。この両者で見られたのは、有権者が投票することを強く称揚する主張である。
日本の総選挙では、脱原発派が投票率の向上により組織票の影響力低下を期待した。韓国の大統領選では、20~30代の若い世代が、進歩系の立候補者を当選させるために若者へ投票に行くように呼びかけた。しかし、『映画 鈴木先生』は、投票率の向上を善きこととするこうした姿勢を安易に肯定しない(逆に安易に否定もしない)。
実際、今回の総選挙(2012年12月16日)では史上最低の投票率を記録しながらも、無効票は過去最高を記録した。これは比例区には投票したものの小選挙区では投票しなかったゆえの結果ではあるが、有権者が無効票を投じたことに違いはない。『映画 鈴木先生』は、この無効投票の意味について問題提起をするのである。
一方、公園の灰皿と「不審者出没」の看板は、公的空間の可能性について考えさせる。舞台となっている住宅街の公園とは、現実的にも、平日の日中に成人男性がもっとも居づらい場所だ。そこにいるだけで不審者扱いされ、忌み嫌われる。しかも、タバコを吸える場所もどんどんなくなっている。
フリーターのユウジと満にとって、公園とは自宅でも職場でもない第三の空間であった。そこでは私的な関係からも、公的な関係からも自由でいられる場所だった。しかし、そこにも厳格なルールが適用されて彼らは居場所をなくす。こうして社会から余剰(グレーゾーン)は排除され、ユウジは第四の空間を求め、凶器を持って学校の屋上に向かう──。
『映画 鈴木先生』が提起するこの問題群は、一般的にはほとんど等閑視されている。選挙で投票することは正しく、公園から不審人物や灰皿を撤去することも正しい──こうしたことに疑義を投げかけるひとは、なかなか見かけない。
いや、たしかに正しいのだろう。選挙で一票を投じ、国政にメッセージを伝えることは正しい。公園から不審人物を排除して子どもたちを守ることや、タバコを吸える場をなくしてひとりでも多くのひとがタバコを吸わなくなることは、きっと良いことである。
しかし、それによってなにが失われるか?──『映画 鈴木先生』はそれを問うているのである。
正しい動機で正しくない行動をする存在
また、『映画 鈴木先生』にはもうひとつ大きなテーマがある。それは人間は演技する生き物だというメッセージだ。本作のヒロインである生徒の小川蘇美(土屋太鳳)は、窮地に陥っているときも動じずに言う。
「ただ冷静な自分を演じているだけ」
社会学に「役割演技」という概念がある。それは人間同士の関係性において、なんらかの期待を受けた者が、それに応じて役割を全うすることである。小川がそう言ったのも、彼女が鈴木先生や他の生徒からの暗黙の期待を認識しているからだ。
対して、凶行に及ぶユウジも役割演技をしている。彼が背負っているのは、居場所をなくした満の期待である。彼は、典型的な「正しい動機で正しくない行動をする存在」だ。
このユウジの動機は、「善きことを目指す」という点で、実は足子先生に通ずる。足子先生は、善きこととして選挙の全員参加を訴え、公園から「不審者」の排除を主張した。ドラマ版も観ればわかるが、彼女は一貫してとても純粋まっすぐな存在で、そこに演技はない。ユウジと足子は、善きことを目指す点で似ているが、役割演技においては正反対の存在だ。
ユウジと足子先生のような対立は、誰もが日常的に目にしているはずだ。それは、日本で毎日のように起きている光景だからだ。『映画 鈴木先生』が描くのは、こうした日本社会の縮図なのである。
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