“感情動員ゲーム”になった政治と分断される社会──自民党×『ViVi』広告の読み解き方
自民党が講談社のファッション誌『ViVi』と組んだプロモーション広告が、議論を巻き起こしている。そこで批判されているのは、これまでの自民党の政策と相反するかのような広告内容や、そのPRに乗った講談社の姿勢などだ。
この問題の論点は多様だが、ここではこのイメージ戦略の政治PRがなぜ盛んになってきたか、そのことについて考えていく。
自民党の政策と相容れないメッセージ
今回の自民党のPR広告とは、政治への関心が薄い層(若年層とは限らない無党派層)に訴求することを目的としている。そこでターゲットとされているのは、ひとびとの理性や思想ではなく感情やイメージだ。そうした点において、今回の自民党広告は(良し悪しはともかく)洗練されている。従来の自民党や政治に対するイメージが、まったく見られないからだ。
広告に登場する白いTシャツを来た若い女性たち(専属モデルではない)は、従来の自民党の政策とは相反するかのようなメッセージを掲げる。憲法違反をしばしば指摘された安保法制の強行採決や、いまだに疑惑が解明されない森友・加計問題、最近では厚労省統計偽装問題や杉田水脈議員のLGBT差別問題など、幾度も問題視されてきた安倍政権や自民党のイメージとはかけ離れた内容だ。
たとえば、「お年寄りや外国人に親切な国でありますように」とのメッセージがあるが、これなどはまさに現在進行系の「(年金が足らないので)老後2000万円報告書」問題や、4月から施行された外国人を単なる労働力としか見なさない「外国人労働者受け入れ」問題とはまるで相容れない。まるでリベラル政党のそれと見紛うような内容だ。
感情がもたらす分断
こうした自民党広告に対する批判は、Twitterを中心に巻き起こった。そもそもこの広告がSNSでのシェアを目的としているのでそれは当然だが、そこでは怒りの感情を叩きつけるような批判も目立つ。投稿文字数の上限が140字のTwitterは、そもそも強いことばが共有されやすい仕様だが、まるで炎上商法のごとくそうした批判を予期していたかのようだ。結果、この広告が可視化させたのは、Twitterで怒りの感情を叩きつけている反自民党の有権者だ。
このとき前提として押さえるべきは、Twitter言論にアジャストした感情動員ゲームが3年前にドナルド・トランプ大統領を誕生させたことだ。感情に訴えるイメージ戦略に対し、怒りの感情を叩きつけることは分断を強化することに繋がる。イメージや感情で生きるひとびとがもっとも嫌うのは、怒りの感情だからだ。そしてこの分断こそが、イメージ戦略にとってはさらなる格好の標的となる。意図的だったとしたら、見事な循環構造だ。
アメリカの分断は、ピュー・リサーチ・センターの経年的な調査からも確認できる(Pew Research Center"Political Polarization, 1994-2017")。
オバマ政権時の00年代後半からアメリカの政治的な分断が強まっていることが、アニメーションでしっかりと確認できる。その要因はさまざまに考えられるが、10年代とはスマートフォンとSNSが浸透した10年間だったことについてはやはり注意が必要だ。
感情動員ゲームの攻略法
もちろん、感情を押しとどめられない人は確実にいる。Twitterは、そういう人ばかりが毎日大声をあげる場になった。だがユーザーの多くに、社会の分断がみずからの感情の表出によって生じている意識はおそらくない。
もちろん前回のアメリカ大統領予備選における民主党のバーニー・サンダース候補のように、対抗的立場として感情をむき出しにした「怒る変なお爺さん」という特異なキャラで、感情動員ゲームに適応する方法もあるだろう。いまTwitterで感情的な対抗言論を投げているひとのなかには、意図的にそうした戦略を採っているケースもあるかもしれない。ただし、そこでは分断が前提とされている。
現実問題として、ひとびとがSNSとスマホを使う現代の民主主義と投票制度では、この感情動員ゲームにアジャストした者が勝つ。身も蓋もないがそれが現実だ。ひとびとの多くは、理性的に思考して投票行動をするわけではない。先行する感情に思考を後付けすることが一般的であることは、昨今の心理学の研究で見えてきていることだ(松谷創一郎「『民主主義のバグ』を使ったトランプの躍進──“感情”に働きかけるポピュリズムのリスク」2016年5月6日)。
そして、理性的に思考するインテリの一票と、感情ベースで生きるひとびとの一票は、もちろんどちらも同じ価値だ。ならば、圧倒的多数の後者にイメージ戦略でアプローチすることは、非常に理にかなっている。「B層マーケティング」をやっていた自民党は、そのことくらい重々理解している。
140字の政治からの脱却
こうした「感情動員ゲーム」の状況下で本来的に求められるのは、しっかりと組み上げられたそのイメージ戦略から、ひとつひとつ丁寧にネジをはずして解体していくことではないか。つまり、「140字ポリティクス」と言うべきこのゲームの脱臼化、およびそこからの脱却だ。
もちろんそうした悠長なことを言ってられない、との反論もあるだろう。まぁそうかもしれない。ならば、「感情動員ゲーム」の上で競い合うしかないだろう。
なんにせよ問われているのは、われわれ有権者のリテラシーである。広告イメージと自民党の政策とのギャップをいかに解きほぐし、それを怒りなどの感情を表出せずに表現していくかが肝要だ。
そのひとつのヒントは、前回のアメリカ大統領選にある。
共和党のトランプ候補者は、80年代に絶大な人気であったレーガン大統領に倣って、「偉大なアメリカを取り戻す!」と訴え続けた。社会の流動性による不安に駆られた権威主義的パーソナリティの民衆は、そこに飛びついた。彼らには、「2位じゃダメなんですか?」などということばは決して響かない。
だが、オバマ大統領(当時)は上手かった。
Twitterでもしばしば散見される、荒ぶるひとびとのささくれだった感情に対し、彼はニコニコしながらこう言ってなだめた。
「アメリカは、すでに世界でもっとも偉大だ」
もし「感情動員ゲーム」を前提とするならば、こうした対処法は政治家だけでなく、有権者やTwitterユーザーにも必要とされるだろう。