【ゴッホ】自分探し旅のターニングポイント オランダ・ニューネン
「じゃがいもを食べる人々」
フィンセント・ファン・ゴッホの初期の代表作と聞いて初めてこの絵を目にしたとき、正直なところわたしは(えっ?)と思ってしまいました。
「ひまわり」に代表されるような光り輝くような色彩が彼のトレードマークと思いきや、それとはまったく対照的にこれでもかというほどに暗い絵だったからです。
この「じゃがいもを食べる人々」が描かれたのは、ゴッホ生誕の地からそう遠くない、オランダは北ブラバント州にあるニューネンという町。ゴッホ32歳のときの作品です。
町の現在の様子は、こちらの動画でご覧ください。
流転の人生
ゴッホの波乱の生涯については、これまで生地ズンデルト、「耳きり事件」のアルル、精神科施設で過ごしたサン・レミ・ド・プロヴァンス、そして終焉の地オヴェール・シュール・オワーズとゆかりの地ごとにご紹介してきましたが、37年という短い人生で暮らした場所の数は20数カ所。画家として活動していたのは最後の10年間で、それまではいろいろな職業にトライしてはうまくゆかずということの繰り返しでした。
人間関係もしかり。仕事場でうまくいかない原因の多くはゴッホの個性によるところが多く、恋愛においても思う人には思われず。いっとき相思相愛になったとしても、どちらかの家族の強い反対にあって成就せず。ゴッホ自身か相手の女性が狂気の沙汰におよぶことも一度ではなかったようです。
ニューネンでのゴッホ
牧師として父が赴任していたニューネンの実家にゴッホが戻ったのは30歳のときでした。子持ちの娼婦と1年半同棲をしたハーグから旅立って地方で制作に専心していたものの、彼女とその子供への思いを抱えたまま孤独さを増し、体調も悪化。そうしておそらく心身ともに衰弱しきって両親のもとへ身を寄せたのだろうと想像できます。
はじめは実家の中庭の離れがゴッホのアトリエになりましたが、両親、とくに父親との折り合いがうまくゆかず、村のなかの別の場所にアトリエを借りることになったようです。実家の隣には、前任の牧師の遺族が暮らしていましたが、そのうちの娘のひとりマルゴとゴッホは恋仲になります。ふたりは結婚も意識していたようですが、家族の反対にあいマルゴは絶望のあまり猛毒をあおるという事態に。ゴッホの機転で一命をとりとめましたが、ふたりの関係はマルゴがニューネンを離れるという形で破局を迎えます。
貧困の伝道師から画家へ
ところで、ゴッホが絵の道を志したのは27歳のときでした。福音伝道師として派遣されたベルギーの貧しい炭鉱町ボリナージュで、作業員たちの暮らしに自ら率先して寄り添い、同様の生活、つまり極貧の境遇を体験したうえでの選択でした。絵の具を使うようになったのはのちのことで、はじめは印刷された絵を送ってもらっては模写することが多かったようです。なかでもミレーの作品に傾倒したというのは、自然のなりゆきのように思えます。貴族やブルジョア好みのテーマではなく農民の姿を描くというミレーの新しい境地に、ゴッホは自身の内なる世界と通じ合うものを感じていたのではないでしょうか。
ニューネンでの2年間を含めて、画家としての前半の5年間にゴッホが描いたのは、いずれも暗い色調に支配された絵でした。そのなかでも特に暗い「じゃがいもを食べる人々」が初期の傑作とされているのは象徴的です。ちょうどこのころ、ゴッホの父が急死。3月30日、つまりゴッホの誕生日が父の埋葬の日でした。
母国からの旅立ち
「じゃがいもを食べる人々」を描き上げるまで、モデルになった家族の暗い家でゴッホは多くの時間を費やしましたが、その家の未婚の娘が妊娠し、父親がゴッホだという噂が村に流れます。事実は違っていたのですが、カトリックの司祭は農民たちにゴッホのモデルになることを禁じてしまいます。
追われる、という表現は言い過ぎかもしれませんが、その年のうちにゴッホはニューネンをあとにしてベルギーのアントワープへと向かいます。そこに落ち着くまもなくパリへ、そしてさらに南へと彼の旅路は続いてゆくのですが、父が他界し、母国を離れたあと、つまり画家としての後半で彼の絵にめくるめくような色彩があふれてゆくのはみなさんご存じの通りです。
結局このニューネンを最後に、母国オランダに戻ることのないまま早すぎる最期を迎えたのは5年後のことでした。
【取材協力】