【ゴッホ】南仏プロヴァンス 蝉しぐれを聞きながら画家の苦悩と円熟のときを思う
ゴッホゆかりの地を巡るシリーズの3回目。今回は南フランスのサン・レミ・ド・プロヴァンスです。
記事の最後に動画がありますので、どうぞ併せてご覧ください。
【サン・レミ・ド・プロヴァンス】
南仏はサン・レミ・ド・プロヴァンスの夏。外国人の姿こそ少なかったが、フランス人の豊かなヴァカンスの風景がそこにあった。プロヴァンス地方のなかで、前回ご紹介したアルルの名前は聞いたことがあるという人でも、サン・レミ・ド・プロヴァンスをご存知ないという方はおそらく多いに違いない。
人口1万人ほどのこの町は、アルルの北東25キロ、アヴィニヨンの南20キロほどのところに位置していて、周囲にはオリーブ畑やワインのための葡萄畑が広がっている。先史時代から人間が暮らしていた痕跡があり、ギリシャ・ローマ時代の都市遺跡なども残っている。
そんな歴史情緒がありつつ、よく手入れされた旧市街には洒落たブティックや食料品店などが軒を連ね、カフェに憩う人たちの様子もなんとはなしにおしゃれ。なるほど、古くから別荘地としてパリジャンやヨーロッパの人々を引きつけてきたという雰囲気が漂っている。
そこでまったりとするのも魅力的だが、今回の旅の目的は「ゴッホ」である。
【修道院時代からの精神科施設】
前回のアルルの記事では、フィンセント・ファン・ゴッホが「耳切り事件」を起こすほどに精神を病み、市民病院に収容されたことを書いた。その後、ゴッホはいったん退院して「黄色い家」に戻ったが、再び癲癇の発作が起こって再入院。数週間後に退院したときには事態は悪化していて、ゴッホを危険人物とみなす近隣の人たちが役所に請願書を出し、強制入院。「黄色い家」で制作活動を再開することは叶わなくなってしまった。
ゴッホは、アルルからサン・レミ・ド・プロヴァンスに移った。というのも、サン・レミ・ド・プロヴァンスには当時、この地方でほぼ唯一の精神病患者専門の施設があって、弟テオの勧めもあり、自らの意思でここに入ることを選択したのだった。
それが旧市街から1キロ半ほど南、オリーブ畑の中に建つサン・ポール・ド・モゾル。10〜12世紀に建てられた由緒ある修道院で、18世紀にはすでに「不幸にして狂気に陥った者」を受け入れて居住させていた。革命の時代を経てゴッホの時代、そして今に至るまでその伝統は引き継がれている。
ゴッホがこの施設の住人だったのは、1889年5月8日から翌年5月まで。パリへ、そして終焉の地オヴェール・シュール・オワーズへ向かう前のほぼ1年間で、何度も発作に見舞われながらも150点近くの油絵を制作したという。
【苦悩と円熟のとき】
ゴッホが暮らしていたサン・ポール・ド・モゾルの建物は現在一般公開されている。
小さなベッドが置かれた小さな部屋、鉄格子のはまった窓。別室には当時治療に使われた浴槽のような設備があり、私たち見学者はそこでのゴッホの日々について、やや鎮痛な気持ちで想像を巡らせる。
弟テオに宛てた手紙にあるように、空室が多かったので、居室のほかに制作のための部屋を得たり、同伴者付きではあったが戸外での制作も許されていた。
けれども、絵の具やテレピン油まで口にしてしまうような生命にかかわる発作が襲ってくると、絵を描くことはしばらく禁じられる。そして容態が落ち着くとまた始めるという繰り返しだったようだ。
このような不安定な状況ではあったが、絵の技量はどんどん増し、円熟の度を高めてゆく。精神病施設にいる間に、のちに代表作といわれる作品をたくさん残しているというのはなんとも興味深い。
たとえばアーモンドの花の絵。早春の空に希望を仰ぎ見るようなこの絵は、弟テオ夫婦がさずかった男の子、しかもフィンセントという自分と同じ名をもらった甥への贈り物になった。
【糸杉】
この地方独特の糸杉もゴッホが好んだ題材だった。
糸杉のことがいつも頭にある。ひまわりの絵のようなものを制作したい。わたしの目に映るように描いた人がだれもいないというのは驚きだ。ラインといいバランスといい美しい。まるでエジプトのオベリスクのようだ。
1889年6月25日付け、テオへの手紙でゴッホはこんなふうに書いている。
ちなみに、糸杉には地元ではちょっとしたいわれがあることを今回の旅で教わった。
家の前に1本の糸杉があれば、「ようこそ」のしるしで、そこでのどの乾きを癒やすことができる。2本あれば食事ができ、3本ならば泊まっていって良いという意味なのだとか。
いまでもそれが有効かどうかはわからないが、ゴッホが糸杉のある風景を愛した気持ち、この土地の魅力というものは、現代の旅人のわたしたちも同じように共有できる気がする。
糸杉は南仏特有の強風「ミストラル」にもよく耐える木だそうだが、それが風にうねるさまはまるで歌舞伎の「石橋物」、獅子の毛振りのようなのではないかと日本人の私は思う。
日本に恋い焦がれていたゴッホが憧れの国に来ることは叶わなかったが、もしも歌舞伎座で「物狂い」の化身を目にしたとしたら、(我が意を得たり)と感極まってしまうのではないか…。
鳴り止まない蝉しぐれ、白昼の催眠術にでもかかったような炎天の中、旧市街への道を引き返しつつそんなことが思われた。
【ノストラダムスの生地】
最後にすこしオマケをば…。
サン・レミ・ド・プロヴァンスは、かのノストラダムスの生地でもあるのだ。
旧市街を歩いていると、ノストラダムスが生まれた家、そして彼の彫像をいただく噴水などに行き当たる。ゴッホの時代からさかのぼることおよそ4世紀、1503年に生まれた人で、薬剤師や天文学者として活躍してゆく過程で予言者としても有名になったらしい。
彼の著書には「コンフィチュール」、つまり果物を砂糖の効果で保存食にすることについて述べたものがあるが、サン・レミ・ド・プロヴァンスのただいま現在の名物のひとつが果物の砂糖煮。1866年創業の老舗「CONFISERIE LILAMAND(コンフィズリー・リラマン)」のウインドーには、南仏の色彩がつやつやと光を帯びて食いしん坊の旅人に手招きをしているようだった。
【取材協力】