【ゴッホ】数奇な運命の始まり 生誕の地オランダ・ズンデルトを訪ねる。
【ゴッホの生地】
ゴッホは1853年3月30日生まれ。それから1890年に亡くなるまで37年という短い生涯でしたが、現存するだけでも油絵作品およそ850点、デッサン1300点、そして手紙も800通あまりのこしました。
それらはヨーロッパ各地を転々とする生涯のなかで生み出されたものですが、波乱万丈の人生の出発点になったのが、ズンデルトという町です。
ここはオランダの南の地方、ベルギーと国境を接する北ブラバント州にあり、ゴッホの時代にはアムステルダムとパリを結ぶ幹線道路だった道が通っています。
そのメインストリートに面していたゴッホの生家そのものは20世紀に建て替えられてしまいましたが、現在「フィンセント・ファン・ゴッホ・ハウス」となり、ゴッホの生い立ちにまつわる展示のほか、ゴッホにインスピレーションを得た現代アーティストたちの作品発表の場として一般に公開されています。
現地の様子はこちらの動画をご覧ください。
【旅する人生】
Vincent Van Gogh
「ゴッホ」という名字の一部だけがひとり歩きしていますが、彼の名はフィンセント・ファン・ゴッホ。これは出身地であるオランダ語の発音に一番近く、現在はこの表記が通例になっているようです。
オランダで生まれ、ベルギー、イギリス、フランスに暮らした彼は、その先々から特に弟のテオに手紙を書いていて、現存する手紙のうち658通はテオ宛のもの。しかも、イギリスにいたときは英語で、フランスからのものはフランス語でというふうに、複数の言語を自在に操ることができたようです。ちなみに彼の名前をフランス語読みにすると「ヴァンサン・ヴァン・ゴッグ」。パリ、アルル、サン・レミ・ド・プロヴァンスで暮らした時代、「ヴァンサン」と呼ばれることが彼にとってはごく自然のことでした。
【出生と終焉にまつわる不思議】
ところで、ここズンデルトを訪れると、文字通り彼の「数奇な」運命を感じます。
「フィンセント」と、ここからは呼ぶことにしましょう。彼が生まれたのは町の中心、マルクト広場の向かいにある牧師館でした。それは、フィンセントの父親がプロテスタントの牧師だったためで、同じキリスト教でもカトリックが大勢をしめるこの地方にあって、プロテスタントを広めるために赴任していたのです。
フィンセントは別の町の寄宿学校に入る11歳までこの家で暮らしましたが、家の目の前の役所を毎日見ていたはずです。それが現在も同じように広場に建っている市庁舎なのですが、これまでにご紹介したゴッホの記事のうちオヴェール・シュール・オワーズ編をご覧くださった方のなかには、もしかしたら「おや」と思われた方もいるかもしれません。
ズンデルトとオヴェール・シュール・オワーズの役所のたたずまいがとてもよく似ているのです。しかも、フィンセントの終の棲家となり、そこで息をひきとった「ラヴー旅館」と通りを挟んで建っているのがその市役所。建物のデザインやサイズ感もそうですが、手前の広場もおそらく偶然なのでしょうが、同じような広さです。
人生の始まりと終わりの地の象徴的な風景がここまでオーバーラップしているのは珍しいのではないでしょうか?
ちなみに、ズンデルトとオヴェール・シュール・オワーズは1982年から姉妹都市になっているようです。
もう一つの不思議は、生家跡から目と鼻の先の教会の敷地にあります。
父親がミサをしていた教会の横が小さな墓地になっているのですが、そこにフィンセントの兄が眠っています。1852年3月30日に死産で生まれ、ここに埋葬されました。墓碑名は「フィンセント・ファン・ゴッホ」。つまり2番めに生まれた男の子にも同じ名前を付けたことになります。
ちなみに、祖父のファーストネームもフィンセントといったそうですし、同じ名前が親族で何度も使われるのはヨーロッパでは決して珍しいことではありませんでしたから驚くにはあたらないとしても、第1子の死産からちょうど1年後の同じ日、1853年3月30日に2番目のフィンセントが生まれているのです。
自分と同じ名前が彫られた墓が日々の生活圏にあるというのはいったいどんな気持ちがするものなのか…。答えのない問いがふと浮かびます。
【ザッキンの彫像】
ところで、エコール・ド・パリ(パリ派)のアーティストで、フィンセント・ファン・ゴッホが亡くなる2週間前に生をうけたザッキン(オシップ・ザッキン 1890‐1967)はゴッホをとても敬愛していました。ゆかりの地巡りの先々で、彼の手になるゴッホ像を目にしますが、ズンデルトのそれは弟テオと一体になったものです。
4歳年下の弟テオもまたこのズンデルトで生まれ、フィンセントとテオは同じ部屋の同じベッドで寝起きをしていたそうです。
フィンセントは16歳になると叔父が経営する画廊で仕事をはじめますがうまくゆかず、教師、牧師、伝道師、書店員など、とりかかったどの職業でも一人前にはなれず、対人関係や恋愛でも問題を起こしてばかりいました。20代後半にして画家になることを決めたものの、生前には成功を手にすることなく、精神を病みながら生涯を閉じます。
画商として有能だった弟のテオは、そんな兄に仕送りをし続けて創作生活を支えました。膨大な弟宛の手紙のなかで、フィンセントは絵の構想をときにはデッサンつきで伝え、仕上がった作品もテオに送り続けていました。
つまり兄弟という関係以上に、いつ報われるかもしれぬ道程をともに歩んだ同志。
生誕の地で仰ぎ見る彫像には、そんな物語が込められているようです。
【取材協力】