五品嶽城がその名の由来、中国山地の要衝として栄えた県境の町 芸備線 東城駅【後編】(広島県庄原市)
前編はこちら。
広島県北東部に位置する庄原市東城町は平成17(2005)年3月31日の合併で庄原市となるまでは比婆郡東城町という独立した町だったところで、庄原市の中心とは30キロも離れているため、合併から20年近く経過した今なお、庄原とは別の大きな町といった雰囲気が漂っている。前編では東城駅を紹介したが、後編では駅のある東城の町を紹介しよう。
東城駅があるのは東城の中心市街の北東、焚火山(たくひやま)の麓だ。駅裏手の山腹には五品嶽城主・長尾隼人の供養塔が建つ千手寺がある。駅前に伸びる県道238号東城停車場線は、狭い道の多い東城市街には珍しい拡幅整備された道で、メインストリートのような雰囲気だ。
東城市街を東西に二分するように流れるのは東城川。全国的には成羽川の名で知られる川で、広島・鳥取県境の道後山に源を発し、芸備線とは小奴可駅付近からここ東城まで沿うように流れてくる。成羽川と呼ばれるのは県境を越えて岡山県に入ってからだ。東城を出ると高梁市備中町で人里に出るまでまた山間に入ってしまうため、なかなか流路をイメージしにくい川でもある。
東城川の東側は「川東」、西側は「川西」と呼ばれ、明治の町村制で奴可郡東城村が成立するまでは奴可郡川東村・川西村が存在していた。駅があるのは川東だ。
東城の地名は市街の西に聳える城山に築かれた五品嶽城(ごほんがだけじょう)に由来する。戦国時代に当地を治めた国人領主・宮氏は、五品嶽城と大富山城の2つの城を築き、それぞれ「東城」「西城」と呼んだ。これが現在庄原市となっている東城町と西城町の名のおこりで、「双子の地名」といったところだろう。
宮氏は毛利氏に仕えていたが、高盛の時に毛利輝元によって改易され、代わりに佐波越後守広忠が城主となった。関ヶ原の戦いで毛利氏が安芸・備後を失い、福島正則が広島に入ると、その家老・長尾隼人正一勝が城主となっている。長尾隼人は東城の町づくりを進め、現在に続く町の基礎を築いた。隼人の死後、福島正則が改易されると、その子・長尾出羽勝行は美作津山藩に仕え、東城を去っている。
一国一城令で廃城となり、長尾氏も去った東城だが、福島正則に代わって安芸・備後を治めた浅野氏の下でも藩境の要衝として繁栄を見せた。浅野氏の下で東城を治めたのは家老の東城浅野氏で、明智光秀に仕えた堀田高勝を祖とする一族だ。高勝は浅野氏への貢献が認められて主君の苗字を賜り、浅野を名乗るようになった。
東城浅野氏の支配は明治の版籍奉還頃まで続き、維新後の東城浅野氏は男爵に叙せられている。
東城は新見へ向かう道と福山へ向かう道が交差する上に、東城川の水運も利用できる交通の要衝でもあったことから、江戸時代には物資の集散地として栄え、城下町の面影を残しつつも宿場町としての性格も強くなっていく。東城も含めた中国山地はたたら製鉄の盛んなところで、周辺の村で産出された鉄も東城に集まって、「くろがねどころ」と呼ばれたという。
たたら製鉄は明治以降は衰退を見せるが、鉄の町・東城は新たな産業をの下で引き続き発展していく。東城市街の南には山本鉄工所(現:ヤマモトロックマシン)の工場が建てられ、ダム工事などで使用される削岩機を製造した。戦前に建てられた工場や事務所、自治寮などの建物は今なお当時のハイカラな雰囲気を留め、国の登録有形文化財にもなっている。普段は立入禁止だが、内部の見学会の機会に合わせて東城の町を訪れてみたいものだ。
南北1キロの範囲にレトロな建物が密集し、街歩きにちょうどいい規模の東城の町。芸備線で素通りしてしまうのはあまりにもったいない、途中下車してゆっくりと楽しみたい町だ。
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