首都圏から隔週で徳島の病院へ。医師が地方で副業して得るものは
東京都内に暮らし、普段は川崎市の総合病院で働きながら、月に2回、徳島県の中山間地域の病院でも勤務する医師がいます。
距離にして700キロほど、移動に半日ほどをかけて地方の病院に通うのはなぜなのか。3年前からそのような生活を続けている木邑健太郎さんに聞きました。
土曜日の午後に徳島に移動し、月曜日の午後に東京に戻る
東京 世田谷区在住の木邑さんは、内科と救急の部長として火曜日から土曜日の午前中までの週4.5日、神奈川県川崎市の総合高津中央病院に勤務しています。それに加えて徳島県美馬市のホウエツ病院でも、隔週で日曜日の朝から救急の日当直を担当し、月曜日の午前中に内科の外来を受け持っています。
「徳島に行くときは、土曜日の午前中まで川崎で仕事をして、午後に飛行機で徳島に飛び、日曜日の朝から月曜日の昼までホウエツ病院で働きます。月曜日の午後に東京に戻り、翌日からまた総合高津中央病院で勤務です。祝日を除けば、12日間連続で働いて2日間休み、また12日間働いて2日休む、というリズムです」
東京から徳島県美馬市へは、それほど交通の便がよくありません。土曜日の午後に羽田から徳島の空港まで飛んで徳島駅前のホテルに泊まり、日曜日の朝一番の特急列車に50分弱揺られ、駅から20分ほど歩いて病院に到着します。列車の本数が少ないため、東京に戻るのも半日がかりです。
長時間の移動を挟んで12日間の連続勤務は、かなり体力を使いそうです。
「僕も3月で50になるので、正直、ちょっとキツイなとは思うんです。でも、それ以上にやりがいがあって続けているという感じですね」
木邑さんのやりがいはどこにあるのか、お話を伺っていくと、原点は高校時代の夢にあることが分かりました。
物心付く前に離れた徳島への思い
木邑さんは徳島市の生まれですが、物心が付く前に愛媛に転居。その後も父親の転勤で何度か引っ越しがあり、小学生のときは愛媛、千葉、東京の4つの学校を経験したそうです。
両親は徳島の人なので家では徳島の言葉で話し、友だちと話すときは愛媛の言葉や千葉の言葉で話す……といった状態で、「自分のアイデンティティはどこにあるんだろう?」と悩んだ木邑さん。いつしか「将来は徳島のために働こう」という気持ちを抱くようになったといいます。
「大学に入った頃に、将来は徳島のために何かをすることで、自分の根っこは徳島にあるんだと証明しようと考えるようになりました。今からすると恥ずかしい話なんですが、『僕は徳島県知事になるんだ』って友だちに言ってはばからなかったんです。
ただ、僕は大学に入ることにかなり苦労しまして、入学後はすっかりバーンアウトしてしまったんですよね。勉強も遊びも中途半端な状態で落ちこぼれてしまって、『徳島のために働く』なんてことはとても言えなくなり、そんな夢は自分の中から消し去ってしまいました」
木邑さんが高校卒業後に入学したのは医学部ではありません。経済学部を出て、新卒でJT(日本たばこ産業株式会社)に入りました。財務部に配属され、投資家向けに経営や財務の情報提供などを行うIRの仕事を5年間担当しました。
「JTは外資系の金融機関からも評価が高い会社だったので、海外出張もありました。
私は大学時代にろくに勉強をしていないし仕事の経験も浅く、要領の良さだけでなんとかしていたところがあります。
ですが相手は、証券会社の証券アナリストや運用会社のファンドマネジャーなど、非常に厳しい世界で生きている方たちで、私の実力の無さや底の浅さがすぐに見透かされてしまうんですよね。自分なりに準備をしていっても、『お前じゃ話にならない』と叱責を受けたりして、『もうちょっと勉強しないとダメだな』と思うようになりました」
人と関わる仕事を求めて医師に
社会人になり、自分の実力の無さを思い知って奮起したという話はよく聞きます。しかし、そこで医師になることを発想したのが、木邑さんのユニークなところです。
「経済学部を出ているから簿記をやってみようかとか、法律の勉強をしてみようかとか考えてみたのですが、どうも面白みを感じなかったんです。どうせなら全然違うことをやってみてもいいかなと。僕は人と話をすることが好きなので、人と関わる仕事がいいんじゃないかと、医師を目指すことにしました」
それから受験勉強をし、一度社会に出てからの入学者が多い信州大学の医学部に2回チャレンジの末にめでたく合格。27歳で入学し、33歳で卒業しました。
「JTに勤めていたときに付き合っていた彼女と結婚し、一緒に(信州大学のある)松本に行きました。奥さんに支えてもらいながらの勉強だったからプレッシャーもあったし、18歳で医学部に入る子に比べたら、9年遅れているという不安も、強くありました。でも、実際に医者になってみると、その9年が丸々ムダだったわけではないな、と思うんです」
木邑さんは今では、「医師になる前に他の世界を経験しておいてよかった」と感じています。それにより、医師を頂点としたヒエラルキーがある病院内でも、看護師や他のスタッフに対して敬意をもって関わることができていると感じるからです。そのことは、患者の異変に一番に気づく立場である看護師とのやり取りをスムーズにし、適切な診断や治療にもつなげるためにも重要なのだといいます。
「徳島のために働く」という夢を取り戻す
大きなキャリアチェンジを果たした木邑さんですが、「徳島で働く」という十代の頃の夢に再挑戦するまでには、もう少し時間がかかりました。
木邑さんは東日本大震災が発生した2011年3月に、当時勤めていた長野県の病院から宮城県石巻市に派遣され、長野県の医療救護班の一員として活動しました。その経験から災害医療をライフワークにしたいと考え、DMAT(災害派遣医療チーム)に登録したそうです。それが、ホウエツ病院の理事長である林秀樹医師と知り合うきっかけになりました。
「DMATや災害医療の関係者はそんなに多くはないので、会ったことがなくてもFacebook上のコミュニティでつながったりするんです。そんな中で、災害医療に大きな貢献をされてきた林先生とたまたまコメントのやり取りをし、『いつか徳島のために働きたいと思っている』みたいな話をしたんですね。その後、林先生が学会で東京に来られるタイミングでお会いし、『うちは医者がいなくて困っている。交通費は出すから、来たら?』と誘ってもらいました」
当時は子どもの受験が控えていたので「受験が終わってから考えますね」と返事をしたものの、「飛行機代まで出してもらって徳島まで行くというような働き方ができるとは考えていなかった」という木邑さん、話半分くらいに受け止めていたそうです。ところが、受験シーズンが終わった頃に「そろそろどう? とにかく1回来てみたら」と林先生からの連絡があり、非常勤の話を具体的に進めることになりました。
地方の、特に中心部から遠いところでは医師不足が大きな課題で、それはホウエツ病院でも同様です。常勤の医師は理事長の林先生も含めて4人で、皆50代後半から70代と決して若くはありません。これだけの人員では夜の当直などを回せないため、徳島大学などから非常勤の医師が派遣されています。木邑さんも、その非常勤の医師たちの一員になったという格好です。
医師の世界では、常勤で働く病院の他に別の病院でもアルバイトするといった働き方は珍しくありません。そのため、木邑さんが常勤で働く総合高津中央病院でも、ホウエツ病院で働くことについては特に問題視はされていないそうです。
とはいえ、距離があるがゆえのリスクや気苦労はあります。
「ホウエツ病院で働き始めてからの3年間で一度だけ、台風で東京に帰って来られなくなったことがありました。そのときは世田谷区内の病院に勤めていたのですが、自分の勤務に穴をあけてしまうことになって、本当に肝を冷やしましたね。今はそのようなことがないように、『天候によっては行けないことがあります』とホウエツ病院の方にご了解をいただいています」
1ヶ月の4分の1は家にいない木邑さんを、家族は呆れつつも認めてくれているそう。
「いつも徳島のお土産を大量に買っていって、勘弁してもらっている感じですね(笑)。うちは男の子2人で、上はもう大学生だし下の子も高校生になったので、何かあれば妻を助けてくれるという安心感があります。子どもたちは徳島を知らないので、いつか旅行で連れて行きたいと思っています」
人手不足の地方の病院での勤務が総合診療のスキルとマインドを育てる
徳島に通うことについて木邑さんは、病院の人手不足を補い、「徳島に貢献したい」という思いを満たすこと以外にも意義があると語ります。
「『救急は地場産業』とよく言われるのですが、病院の置かれている環境によって、運ばれてくる患者さんの病気やケガの内容が変わるんですね。
例えば、工場の近くにある病院であれば機械に手を挟んだとか転落したとか、労働災害に当たるようなことで来る方が多いです。ホウエツ病院のような地方の山間部にある病院だと、ハチに刺されたとかヘビに噛まれたとかで来る人が多い。逆に、リストカットしたとか薬を大量に飲んじゃったという若者が運び込まれてくるようなことは、都会の病院ではあっても地方の高齢化の進んだ地域ではほぼありません」
初めてホウエツ病院に行ったころは、急患の内容の違いに戸惑った木邑さんですが、救急医としての幅が広がったとポジティブに受け止めています。
「病院の規模や体制によって、休日夜間にできることの範囲も違ってきますので、それを考慮して仕事の段取りを考えなければいけません。
例えば『これから15分で患者を運びこみます』と救急要請があって、『これは絶対にCTを撮ることになるな』というとき、都会の大きい病院であれば院内のPHSで当直の放射線技士を呼び出せば済む話です。ホウエツ病院では、CTやMRIを撮るのに院外から技師を呼び出さなければいけません。患者が到着する前に技士を呼んでおく、といった準備が必要になるんです」
木邑さんは、地方のへき地の病院で働く経験は、昨今重要性が増している総合診療医に必要とされるスキルやメンタリティを養うことにつながるのではないか、と指摘します。
総合診療医とは、「外科」「内科」「精神科」…などと領域を限定せずに初診の患者を診療し、病状に応じて初期治療を施したり、適切な専門医などにつないでいく医師のことを指します。医療における専門分化が進みすぎて起きている様々な弊害を打開する役割として期待され、日本では2018年より総合診療医が専門医として資格認定されるようになりました。
「ホウエツ病院では月曜日の午前中に内科の外来をやっていますが、腹痛やら頭痛やらいろいろな方が来るんです。そんななかで珍しいがんを見つけたりすることもあって、当然院内では治療できないので大きな病院に紹介状を書くわけですが、とても勉強になります。
医師が少ない地域の場合、1人の医師が患者さんの全体を診なければ始まりません。まさに総合診療的なメンタリティやスキル、経験が必要なんです。逆に言えば、総合診療のスキルを養いたいという人には、そういうところこそ面白いフィールドだと思いますよ」
木邑さんは、経済的な部分もきちんと保障するために、医師個人に地方で働くことを勧めるだけではなく、国の制度として医師が地方の病院を経験するような仕組みができたら良いのでは、と考えています。
また、医師不足に悩む地方の病院も、「スキルアップにつながる仕事がある」とうまくアピールすることで、やる気のある医師が来てくれるのではないかと提言します。
その際には、木邑さんのようにフレキシブルな働き方をしたい医師を受け入れることも有効かもしれません。
「医者って、フルタイムでなくても専門性を活かすことができる仕事なんですよ。以前、ハム屋さんになるという夢を持ってハム工房で修行しつつ、日々の生活費を稼ぐために週2〜3日アルバイトで内科の外来をやってるというお医者さんに会ったことがあります。そういう意味では、医者って自由なんです。
僕はたまたま徳島への思いがあって東京から時間をかけて通っていますが、関西からならもっと近いんですよ。例えば徳島の病院なら、『大阪では学べないことを、徳島では学べます』みたいなアピールの仕方はありだと思いますね」
また、経験の浅い若い医者だけでなく、一線を退いたシニア層の医者が地域の医療にパートタイムで関わるといった道もありそうだ。
「若い世代であれば経験が積める、ベテランであれば経験を生かして地域に貢献できる、シニア層なら年金の保険とかお小遣い稼ぎになる……など、いろいろな世代に合った訴求の仕方があると思います。人手の足りない病院と働く側と、互いにウィンウィンの関係が築ける可能性があるんじゃないでしょうか」
勤務外時間に他の病院でアルバイトするという形で、一般企業の社員に比べて副業が以前から一般化している医師の世界。現在は収入を補填するためにそうする人が多いようですが、木邑さんのように地域への貢献や、さらなるスキルアップのために、という人も今後は増えていきそうです。それは病院のお世話になる私たちにも恩恵をもたらすことでしょう。新たな活躍の場を求める医師と、医師を求める地方の病院とのマッチングが進むことに期待したいと思います。
(写真はすべて木邑さん提供)
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