日常のパンを作る〜東京で店を開くつもりだったパン職人が四国に移住して得た仕事〜
笹川大輔さんは、東京で生まれ育ったパン職人。2017年の2月に妻と双子の子供たちと一緒に徳島県神山町に移住し、町のパン屋で製造責任者として働く。
ーーそう聞いて、安心安全な食材でこだわりのパンを作りたい、豊かな自然の中で子供たちをのびのびと育てたい……、そんな夢を叶えるための移住だろうかと想像しました。
しかし実際にお会いして話を聞いてみると、移住願望は特になく神山町のことも知らなかったそう。たまたま新しくパン屋を立ち上げようとしている会社の事業に魅力を感じての決断だったといいます。
人口5,500人の町のパン屋の何が笹川さんを惹きつけたのか、経験したことのない条件での仕事の難しさや醍醐味とは? 現地を訪れて話を聞きました。
地元の小麦と野菜を使い、町民の日常のためのパンを作る
現時点では町内で唯一のパン屋である「かまパン&ストア」がオープンしたのは、2017年3月。その前月に移住した笹川さんの仕事は、店に並べるパンを急ピッチで開発するところから始まりました。
当時はもうひとり、やはり東京から来たパン職人の塩見聡史さんが半年間限定でお店の立ち上げに従事していました。店のすべてのパンには、神山で育った小麦を用いて自分たちで培養する自家培養発酵種が入っています。自家培養発酵種を使うパン作りが初めてだった笹川さんは、初めは塩見さんに教えてもらい、今も試行錯誤しながら日々パンを焼いています。
この「かまパン&ストア」を運営するのは、地域の農業と食文化を次世代につなぐことを目的に設立された株式会社フードハブ・プロジェクトです(フードハブ・プロジェクトについての詳細はこちらを参照:ちいさな町の農業と食文化を将来につなぐプロジェクト~なぜ始まり、誰が担うのか)。
「地域の農業と食文化」と「パン屋」。この2つには少し距離があると感じられるかもしれません。しかし、今や日本人の食卓にパンは欠かせないもの。食パンを始めとする日常のパンを買える店は、町の人たちとの接点になり得るのです。
また、スーパーやコンビニで手に入るパンのほとんどは、大手メーカーが外国産の小麦を使って地域外の工場で生産するため、その売上代金は地域外に流れていきます。「かまパン」では、小麦の他にも町の畑でできる野菜を使ってお店の中で手作りすることで、地域内で経済循環を発生させようとしているのです。
人との関係性に温かみを感じ、新たな環境に飛び込んだ
笹川さんは高校を卒業してからずっとパン作りの仕事をしてきました。技術や経営を学ぶために中小スーパーや個人経営のお店など複数の職場を経験し、そろそろ独立しようと周囲にも相談していたところ、共通の知り合いの方がフードハブ・プロジェクトのことを教えてくれました。
そこで初めて神山町の存在を知った笹川さん。ネットで検索してみると、IT企業のサテライトオフィスがたくさんできて移住者が増えていることや、町による地方創生の動きも報じられています。それを見て、「ネットにはいいことしか書いていない。本当にそうなのかな?」と半信半疑で神山町を訪れてみたそうです。
ここで働く決め手となったのは、フードハブ・プロジェクトの林隆宏社長や現場を取り仕切る支配人の真鍋太一さんとのやりとりで感じた人間関係の温かさでした。
「それまでに経験した職場はどこでも、上司と部下とか社長と従業員という関係がありましたが、林と会ったときに『この人が社長なの?』と驚いたんです。なんだか友達のような雰囲気で、話していても面白い。真鍋もすごくウェルカムな感じで、『もし移住して働くなら』ということで色々要望を出させていただいたのですが、『会社として対応するのは難しいことは個人として引き受ける』とも言ってくれて、『ここは、人と人との関係性がなんだか違うな』と感じたんです。それが決め手になりました」
ただ、東京では病院や実家も近く、何かあっても心配のない環境だったため、過疎の田舎での生活に不安があった笹川さん。背中を押したのは奥さんだったそうです。
「ここに来た初日にマムシが出たんです。これはヤバイな、と思って『子供がマムシに噛まれて死んだらどうしよう。後悔しない?』という話をしました。そうしたら妻は『東京にいて交通事故に遭う確率とどっちが高い?』と言うんですよ。それは交通事故だね、という話になって決心がつきました。
こっちでの生活は大変じゃないか、という話もしたんですけど、妻は『こちらのやり方に合わせればいいんじゃない?』と。『家が壊れたら直せばいいし、分からなければ誰かに聞けばなんとかなるんじゃない』と言うんですね。実際、こちらに来て1年で、野菜はスーパーで買うんじゃなくて自分たちの家で作ったものやフードハブの畑でできたものを食べるとか、こちらのやり方で生活するようになりました」
農業から食育まで、パンを通じて全てがつながる面白さ
笹川さんは当時、東京で自分の店を開くという目標はあったものの、「どういうパン屋にするか」という明確なコンセプトが描けずにいました。
パン作りであれば、厳選した素材で作るパンとか、フランスの伝統的な製法に則ったパンとか、色々とこだわりどころがありそうです。でも笹川さんは「パンに関しては、正直あまりこだわりはない」とのこと。
今フードハブ・プロジェクトで軸になっている無農薬野菜や天然の素材といったことにさえ、それほど関心が高かったわけではないようです。
「オーガニックに関しては半信半疑というか、『だから何?』という思いもあったのですが、こっちに来てからだいぶ見方が変わりました。
ここに来る前に勤めていたところではパン屋同士の横のつながりがあって、小麦生産者との関係を作るような活動に、少しですが参加させてもらっていました。そういう活動を通して、おいしいパンを作る技術以外にも重要なことがあるんだな、と学んだのです。
さらに神山に来て、なるべくここで作られたものを使ってパンを作るという中で、無農薬かどうかということよりも、誰がどういう理由で作ったものかが分かることが重要で、それを考えながら食べることが『食育』なんだなと、その意味が徐々に分かってきました。」
パンそのものにはこだわりがない、技術的にも業界のトップレベルには敵わない、そんな自分だから“パンにプラスアルファ”で何かできないか、と考えていたという笹川さん。フードハブ・プロジェクトが「育てる」、「食べる」、「食育」という3つの領域でやっていくという話を聞き、正にパンだけで完結しない、パンを通じてすべてがつながる面白い仕事だと、ピンときたのでした。
食べる人の生活が見えること、理由をもって買ってくれることが嬉しい
「自分が作るのはこんなパン」というこだわりはなく、「明確な理由があれば、そのニーズに合わせて作る」ことにやりがいを感じるという笹川さんに、町で採れたものを使って日常的に食べられるパンを作るという仕事はいかにもぴったりです。
ただ、神山町の在来の小麦を使ってパンを作るのは前例がないため、試行錯誤の連続。地元の野菜を使うということに関しても、季節によって使える素材が変わる中で「こういう使い方はありか?」「この味でいけるか」といったことを日々、隣接する食堂の「かま屋」の料理長と相談しながら詰めていくそうです。
「やっぱり、普通のものを作っても意味がないというか、僕らの役割とは違う。この神山で、このパン屋さんならではのものを作っていこうとしています」
チャレンジングな環境ですが、その分喜びもあります。
「ここにいると、お客さんの顔が見えるんです。子供の保育園のつながりなんかで知っている人もたくさん来てくれるし、『昨日はこのパンをこんな風に食べて、そうしたら子供がめちゃくちゃ喜んで食べたよ』と話してくれる人もいて。食べてくれる人の生活が見える瞬間というのは、やっぱり嬉しいですね」
InstagramをはじめとするSNSの影響もあって、東京では「誰々が美味しいと言っていたから」と他人の判断で買う人が多く、笹川さんはパンがファッションの一部になっているように感じていました。でも「かまパン」には、生活の一部として根付いていけそうだという手応えがあるようです。
「ここでは、自分の判断で買いに来てくれる人が多いです。フードハブのことを理解してくれて、ここで買う理由をもって来てくれているな、ということが分かります」
パンをもっと自由に、生活の一部として楽しんでほしい
今は「かまパン」を日々回していくのに精一杯だという笹川さんですが、「将来やりたいことは?」と聞いてみると、「多拠点生活に興味があるんです」という答えが。
「東京に実家があって、神山に住んでいるので、もう1ヶ所どこかに拠点があるといいなと。他の拠点でやることはパンでなくてもいいし、逆に複数のパン屋で『今月はこっち、来月はあっち』と交代しながらやっても面白いかもしれないですね」
もちろん「かまパン」にはずっと関わっていきたいけれど、自分ひとりでは継続しづらい。フードハブ・プロジェクトが農業の担い手を育てているように、パンも自分以外にも作れる人を増やし、フレキシブルにやっていきたいのだそう。
パンに関しても、面白いアイデアがあります。
「東洋医学のアーユルヴェーダに興味があって、そういうパンを作りたいんです。東京では不特定多数の人に、神山では特定多数の人に向けたパンを作ってきましたが、もっと特定の『あなただけのパン』ができたら面白いと思って。
すごく高いパンを1個買ってきて食べる朝って、テンション上がったりしませんか? 食べることの楽しみを増やし、生活の質を高めるようなパンを作りたいですね」
18歳からパンの世界に入り、伝統的なパンの製法を正しいものと考えていた時期もあるという笹川さんですが、今はもっと自由な発想をしています。
「パンをご飯と同じくらい気取らない、生活の一部になる存在にしたい」という笹川さんが今後どんなパンを提案してくれるのか、とても楽しみです。
(写真はすべて筆者撮影)