国で検討されている「令和の日本型教育」ってなに? 漂う昭和感と根深い問題(後編)
前編につづいての後編です。いま国の審議会や文科省内では、「令和の日本型学校教育の構築」という掛け声のもと「教育改革」が進められようとしています。今後の方向性を決めていく重要な提言である、中教審(中央教育審議会)の中間まとめは、非常に重要な提案もたくさん含んでいますが、危ういところや問題点もたくさんある、とわたしは見ています。
前編では抽象的な概念(バズワードかそれに類するもの)を持ち出して、煙に巻く戦術が広がっている、それで学校現場はまた振り回されるのではないか、ということを指摘しました。
■副作用についての検討が甘い
第二の問題は、そうした曖昧な概念のもと、負の影響や副作用について、慎重な検討が十分なされているようには見えないことです。
たとえば、前編でも問題を指摘した「個別最適な学び」については、孤立した学びにならないようにという言及はあり、これは重要な指摘です。ですが、「個別最適化」に伴い広がりかねない学力格差の問題などへの配慮、対策はとても薄いです。
保護者が教育熱心で、学習塾などでも進んだ勉強を済ませている子は、ICT(一人一台端末など)を活用した「個別最適化」の流れのなかで、どんどん発展的な学習を進めていけるかもしれません。一方、そういう家庭環境にない子やもともとその教科が苦手だった子(たとえば、小学6年生であれば、3~4年生の算数でつまずいている子も多いようです)にとっては、いくらその子に適した練習問題などをAIなどが出してくれるとしても、あまり勉強を好きになれず、先ほどの子との学力差は開いていく可能性が高いでしょう。
次の資料は、中教審の中間まとめの概要版からの抜粋です。文字が多くて読みづらいかもしれませんが、たくさんの施策がずらっと並んでいますね。
ですが、先ほど指摘した学力格差の問題などへミートする政策はあまり見当たりません。補充的な学習を行ったり、カリキュラムや指導方法を工夫したりせよ、というくらいの内容にしか読めないのです。また、さまざまなことを打ち出しているわりには、一貫性や戦略性があるようには管見のかぎり、読めません。文科省をウォッチするある報道関係者は、「各課がやりたい政策を並べただけではないか。ごった煮だ」と指摘していました。
少人数学級についても、多大な財政コストがかかる可能性がありますし、そのために正規教員の配当があまりなされないまま実施される可能性もあります。仮に予算が取れたとしても、そのぶん、小学校の教科担任制や持ち授業コマ数減少など別の政策への予算は回りにくくなるかもしれないのに、そうした副作用やマイナス影響についての議論はほとんどなされていないように見えます。
■相変わらず、ビルド&ビルド
第三に、学校や教職員の業務を増やす方向性、志向が強い内容となっています。働き方改革についての言及は一応あるものの、「令和の日本型学校教育」でも、学校丸抱え体制、あるいは、教職員にあれもこれもお願いし続ける昭和の体質からは、変わっていません。
総論としては、次の記述について、考えてみたいと思います。
そもそも、「日本型学校教育」と文科省が呼んでいるものは、学校で重要なのは、教科指導だけではないという発想から来ています。海外では、教師の役割は主には授業というところもあり(たとえば、米国)、相談はカウンセラー、進路指導はキャリアカウンセラー、スポーツなどの課外活動は地域などと分担している国もあります。これに対して、日本の先生は、包括的にさまざまな役割を担っており、たとえば、掃除や部活動まで学校、教員の役割とされている国は珍しいです。さらには、家庭のほうが主たる責任である領域(深夜の非行、学校に原因がないネットいじめなど)にまで教員が関わっていますので、もともと「日本型学校教育」はてんこ盛りなのです。
これは、子どもたちや保護者にとっては、ありがたい話でもあります。担任の先生等がいい人であれば、子どものことをさまざまな角度から支援してくれるわけですから。ですが、副作用、逆機能としては、今日の学校、教師の多忙、過重労働の原因ともなってきたわけです。
たとえるなら、船にどんどん積み荷を増やすばかりで重くなり、船はもう前には進めず、沈みかけている。それが今日の多くの学校であり、欲張りな「日本型学校教育」を続けてきた結果のひとつです(次の図)。
今回の中教審のまとめは、1点目、2点目に指摘した問題とも重なりますが、過去の反省が非常に曖昧で、課題分析が甘いので、「日本型学校教育」をよいものとみなし、より付加し、発展させていこうとしています。その副作用が大きくなることには、ほとんど配慮されていません。厳しい言い方をすれば、能天気だと思います。
小学校教諭(現在は教職員組合)の能澤英樹さんは、学校に福祉的な役割の強化を求める今回の中教審の提言について、次の問題を指摘しています。
重要な指摘だと思います。学校や教師にあれもこれもお願いすることは、教師が疲弊してしまうという問題に加えて、一極集中による脆弱さがあるというわけです。ですから、学校だけに期待するのではなく、さまざまな社会的な資源、組織と連携、協働していく道をもっと具現化するべきでしょう。しかし、そうした検討や具体策はほとんど出てきません。
■またペーパーワークを増やして、やったふりをさせるのか?
もっとも、文科省、中教審も、先生たちが忙しすぎて、コロナ禍のなかで一層疲弊しつつあることはさすがに知っています。中間まとめには「学校現場に対して新しい業務を次から次へと付加するという姿勢であってはならない。」とも釘をさしています(p.18)。
ところが、そう言っている中教審が、また次から次へと、学校の負担を増やそうとしています。
典型例は、高校にスクール・ミッションと3つのスクール・ポリシーを立てよ、というくだりです。高校教育、とりわけ普通科が偏差値輪切りで、大学入試や就職の対策に力点が置かれ過ぎていることは、以前からの問題です。しかし、だからといって、なんとかポリシーを立てて解決する問題なのでしょうか。そもそもポリシーを立てさせるのは大学が先行例ですが、形骸化しているという声も聞きます。
既存の学校経営計画や学校評価等との関係性もよく分かりません。高校現場から見れば、負担増です。文科省は、そんな暇があるなら、調査書や推薦入試の書類などの進路関係の負担をもっと減らすことなどに力を割けばよいのに、と思います。
また、キーワードのひとつである「個別最適な学び」を進めるためには、教師により入念な授業準備や個々の児童生徒へ応じたフィードバック(専門用語では形成的評価)が必要となりますが、その余裕がない人が多いです。そのため、今もノート点検くらいで関心・意欲を評価してしまうなど、学習評価の形骸化が問題視されているのに、やはり、現状分析、過去の反省が甘いので、そういう課題にミートした言及はありません。
教育には、なんとなく「これはあったらいいな」と思えるものは多いです。子どものためになることに関わるから、よけいそうなりやすいです。ですから、よけい注意しておかないといけません。わたしは足し算をやろうとするのではなく、引き算が必要だと思いますが。
文科省や中教審、あるいは研究者らは(すべての人がそうだったとは言いませんが)、昭和から平成にかけて、ほとんど無批判で学校の役割、機能を増やし続けてきました。このことのツケが、今日の疲弊した学校現場に来ているのに、その反省の色は令和になっても見えてきません。
教育社会学者の苅谷剛彦教授は、20年近く前に『教育改革の幻想』というタイトルの本(2002年、筑摩書房)の中で、次のように述べています。
現在進行中の「令和の日本型学校教育の構築」も、この指摘に非常に類似したロジックと問題を抱えていると、わたしは危惧します。決して、小綺麗な言葉でごまかされることなく、いま何が起きようとしているのか、そこにはリスクや副作用が大きくはないか、そもそも現状認識や過去の振り返りは確かなものなのか、そういう点をひとつひとつ丁寧につぶしていく必要があります。
※本稿(前編、後編)は教育新聞への寄稿記事(10月15日)をもとに大幅に加筆修正して作成しました。
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