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文科省がNHKに抗議、深まる学校との溝、だれが一番損するのか

妹尾昌俊教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事
文科省の看板(ブランド)への疑義、不信が広がっている、写真は正面玄関(筆者撮影)

文部科学省への学校現場、教員からの反発が広がっている。先日(5月17日)文科省はNHKの報道に対する抗議文を公表した。公立学校教員の給与制度の改革案に関して、「定額働かせ放題ともいわれる枠組み自体は残ることになります」と報じたことは、一面的で国民に誤解を与えるような表現だ、と問題視したのだ。だが、この文科省の姿勢に対して、X(旧Twitter)やネットニュースのコメント欄などでは、逆に文科省への抗議、批判が集まり、炎上とも言える事態になった。国会審議でも問題視されている。

わたしは今回の文科省の抗議には問題が多かったと考えているが、この記事では、文科省の主張の妥当性や是非を議論したいのではない。こうして文科省と学校現場との間に不信感が広がり、溝が大きくなることは、いったい、だれが得をして、だれが損をするのかについて、考えたい。

■文科省は何に抗議し、学校・教員は何に反発したのか?

まず、事実関係を整理しよう。NHKが報道したのは、文科省の審議会(中教審)の検討結果についてで、公立学校教員に残業代が出ない特別法(給特法)を維持するとした案についてであった。NHKニュース記事(5月13日)では、以下のように報じている(抜粋)。

“定額働かせ放題”とも言われてきた、勤務時間に応じた残業代が支払われない枠組みは残るため、先月、素案が示された際も教員などから長時間労働の抑制につながらないとして抜本的見直しを求める声もあがっていました。

これに対して、冒頭で述べたように文科省は抗議した。全文は以下で閲覧可能だが、ここにも掲載しておく。

https://www.mext.go.jp/b_menu/oshirase/kenkai/mext_00002.html

出所)文科省の抗議文(同省ウェブページ)
出所)文科省の抗議文(同省ウェブページ)

この文科省の抗議に対して、とりわけ現役教員からも批判が殺到したのだが、おおよそ、以下の内容が多かったのではないかと思う。

●学校現場には次々と仕事が増えてきて、残業も多い。まさに「定額働かせ放題」な実態だ。NHKの報道は間違っていない。
●時間外にたくさん働いているのに、残業代が出ていない。そこを問題視するべきなのに、文科省と中教審は変えようとしない。
●政府の報道機関への不当な介入、圧力ではないか。文科省に忖度、萎縮する報道(NHK以外も含めて)が増えないか、心配だ。
●他のテレビや新聞などでも一部事実関係に疑義のある報道があったのに、なぜNHKの報道だけ槍玉にあげるのか。
●文科省は、こんな抗議文を出すヒマがあるなら、もっと学校現場のためになることをやってくれ。仕事を減らすとか、人(教員)を増やすとか。

さまざまな批判、意見があがっているが、共通点を大きくまとめると、「文科省は、学校の大変さをちっとも分かっていない」ということかと思う。数年前(2021年)に「#教師のバトン」というハッシュタグで文科省が教職の魅力や学校のよさをSNSで集めようとした際にも炎上したが、今回も似ている。「文科省は、学校の大変さや教員の苦労を分かっていない、分かろうとしていない」と。

■文科省と教員との不信、何に影響するか

わたしは、文科省をはじめ政府に、批判や意見を述べることはとても大切なことだと思っている(わたし自身も批判的な記事を書くこともあるし、文科省の審議会で問題提起をすることも多い)。文科省は文科省で、学校現場のことをよく把握している側面があることも事実だと思うが、もっと教職員に寄り添う姿勢と政策を見せてほしい(学校で働いているのは教員だけではないので教職員と表記する)。

だが、「文科省は学校のことを分かっていない」とセンセーショナルに煽り、文科省と教職員との不信感を広げ、分断を助長することは、とても賢い選択だとは思えない

※5/24・21時追記 すべての批判や意見が煽りだと捉えているのではなく、一部の個人やメディアの影響を問題視している。

ちょっと歴史を学べばよく出てくるが、最近のこうした風潮は、だれかの「離間(りかん)の計」ではないか、とも思えてくる。離間の計とは、敵を仲たがいさせて内部分裂を誘い、弱体化させる計略だ。三国志でも出てくるし、漫画キングダムでも大活躍する李牧にも関係する。

画像はイメージ
画像はイメージ提供:イメージマート

具体的に申し上げよう。文科省と学校との間に不信感が広がると、少なくとも以下の3つの問題が一層深刻になる。

■悪影響① ますます教育予算は取れなくなる

急激に進む少子化のなか、学校教育になるべく予算をかけたくない。これが財務省の基本姿勢である。医療や福祉に巨額な予算がかかるので、政府予算の優先順位付けは当然だし、学校教育のムダや非効率さは問題視されなければならないが、他の先進国と比べても日本の教育関係予算は低い。必要性の高い投資は講じるべきだろう。とりわけ教職員の労働環境改善は急務だ。教職員がこのまま疲弊しては、よい授業や十分な子どものケアにならない。

もちろん、教員の給与制度として、給特法を維持したままでよいのか、それとも廃止したほうがよいのかは、賛否あるし、文科省や中教審への批判や提案は重要だ。だが、あまりにも教育関係者がまとまらないまま、仲たがいばかりしていては、いつまでも教育予算は増えないだろう。

少子化とはいえ、現状でも、教員(小中高、特別支援学校)は約100万人もいる。少し政治家(国会議員)の気持ちになって、想像してみよう。次の選挙で当選できるかどうかが重要関心であるなか、文科省のやることなすこと、教員に不人気なことばかりだということなら、それはもちろん文科省が猛省するべきことではあるのだが、政治家も予算獲得に働きかけたりしようとはしないだろう。

文科省と教員等が対立ばかりしていて、ほくそ笑むのは財務省かもしれない。わたしは別に財務省を敵視しているわけではないが(財務省の言い分で理解、共感できる部分もあるし、おかしいと思うところもある)、「文科省はダメだ」という風潮や世論を広げるばかりでは、財務省が教育予算を付けない口実を与えることになる。「真にニーズや必要性が高いことでないと、予算化はできません。文科省が予算要求している政策には、現場から反対意見や反発が非常に多いですよね。じゃあ、今回は見送りで。」と言われるだろう。

繰り返すが、文科省の言うこと、なすことに、教員は黙って従えとか、迎合したほうがよい、と申し上げたいのではない。反射的に「文科省は分かっていない、ダメなヤツらだ」と思い込み、感情的になりすぎたり、反発したりするだけでは、先生たちは自分たちに必要性の高い支援を受けられなくなる、言い換えれば、自分で自分の首を絞めるようなことになるかもしれない、ということを申し上げている。

現に、最近出た財務省の審議会の資料(令和6年5月21日 財政制度等審議会「我が国の財政運営の進むべき方向」)では、少子化に伴い教員数を大きく削減するべきであること(次の図を参照)、教員の給与を上げる必要性は低いことなどを述べている。かなりざっくりまとめると、教員の労働環境改善に大きな予算はかけたくない、ということだ。

出所)財政制度等審議会「我が国の財政運営の進むべき方向」参考資料
出所)財政制度等審議会「我が国の財政運営の進むべき方向」参考資料

■悪影響② さらなる教育改革が降ってくる

第二に、文科省と学校との亀裂が深まると、教員側は、「どうせ今回も文科省はロクなことを言ってこない、余計なことを増やすばかりだ」という反応になりやすい。そうなると、文科省や中教審、あるいは政治家が提唱する教育改革や制度変更は、学校現場での運用・実践段階で形骸化する。骨抜きになりやすい。

これは、忙しい学校、教員のできることとしては、当然のことだと思う。「〇〇をやれ」と言われても、あまり意味がないと思うことであれば、力を抜くのは、ある意味、健全な反応だ。

だが、そうなってくると、文科省や政治家からすれば、いつまでも、学校現場は問題だらけ、改革が浸透していないように見えるので、また追加的な教育改革や制度変更をしようとする。こうなっては、ますます学校は苦しくなる

実際に、平成の間に行われた教育改革のなかには、こういう経路をたどっているものも少なくないと思う。以下は一例。

〇(文科省、政治家) 学校は自分たちの活動を反省して、改善しようとする努力が足りないのではないか。

〇(文科省、政治家) 学校評価を導入しよう。

〇(学校) 忙しいのだから、評価なんてテキトウに済ませとけ。

〇(文科省、政治家) 学校にはPDCAがもっと必要だ。保護者等の意見を反映させる制度も入れよう(例:学校運営協議会、コミュニティ・スクール)。 

〇(学校) また面倒なことをやれ、と言ってきているよ。

■悪影響③ なんでも文科省が悪いとなって、自分事にならない

先生たちはとても忙しいし、実際に文科省が学習指導要領などで負担を増やしてきたのは事実なので、文科省に不満を言いたくなる気持ちは分かる。だが、だからといって「文科省が悪い、分かっていない」と言うばかりでは、学校、教員は、自分たちの問題や改善点を見ようとしなくなる。言い換えれば、他人のせいにして、自分への反省が甘くなる。(繰り返すが、文科省が反省するべきことも多いので、学校だけが悪いと言いたいのではない。)

教員の負担については、だれかだけを悪者扱い、犯人扱いしても、事実に反するし、生産的な議論とも思えない。複合的な要因で多忙になっているからだ。

たとえば、中高の教員にとって負担の重い部活動、あるいは小中等の教員にとって手間がかかっている学校行事は、学校の裁量、変えられる余地が大きい。学習指導要領でも、部活動を設置・運営することは必須にはなっていないし、ましてや教員全員に顧問をせよ、などとは文科省は言っていない。むしろ、必ずしも教員がやらなくてもいい、と言っている。学校行事は、学習指導要領に記載はあるものの、運動会や体育祭を行うのかどうか、行うならどんな種目をして、どのくらいの時間を準備にかけるのか、文科省は定めておらず、すべて学校裁量だ。

写真:アフロ

「#教師のバトン」で噴出した教員からの文科省への不満や意見でも、「それは文科省が強要している問題ではなくて、校長の判断で変えていけることですよ」というものも少なくなかった。もちろん、学習指導要領や教科書検定、教職員定数、給特法をはじめとする法制度などは文科省が担っているので、文科省の役割や責任が大きい部分もあるが。

学校の先生たちにとっては釈迦に説法だが、教室での教員と児童生徒との関係でも、不信ではなく、信頼がベースとなる。「アイツとは絶対に分かり合えない、ダメなヤツだ」と安易に見放しては、建設的な関係にはならない。

今回の文科省の姿勢に限らず、これまで文科省が学校にやってきたことに問題や反省が多いのは事実だが、そこはそこで指摘、批判しつつも、関係づくりを放棄してよいかどうかは、考えてほしい。学校が苦しくなって一番被害を被るのは、子どもたちであって、そんなことは避けたいという気持ちは、文科省も、教育委員会も、教職員も共通してもっている。

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https://news.yahoo.co.jp/expert/authors/senoomasatoshi

教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事

徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演、コンサルティングなどを手がけている。5人の子育て中。学校業務改善アドバイザー(文科省等より委嘱)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁の部活動ガイドライン作成検討会議委員、文科省・校務の情報化の在り方に関する専門家会議委員等を歴任。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『教師崩壊』、『教師と学校の失敗学:なぜ変化に対応できないのか』、『こうすれば、学校は変わる!「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法』等。コンタクト、お気軽にどうぞ。

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