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ミャンマー騒乱を深刻化させた4つの理由――忍びよる内戦の危機

六辻彰二国際政治学者
抗議デモに参加して死亡した医大生の葬儀で結束を確認する人々(2021.3.16)(写真:ロイター/アフロ)
  • ミャンマーで広がる抗議デモとそれに対する鎮圧は、民主化後の最悪レベルに達している。
  • 悪化する情勢は、ミャンマーが抱えるいくつもの問題が表面化した結果といえる。
  • この状況を打開する公算が最も大きいのは、これまで抑圧されてきた少数民族の動向である。

なぜここまで状況が悪化したか

 ミャンマーでの抗議デモと治安部隊との衝突は、3月26日までに320人以上の死者を出すなど、泥沼の様相を呈している。

 今回の騒乱のきっかけになった2月1日のクーデタで、国軍の最高責任者ミン・アウン・フライン将軍は、昨年11月に行われた総選挙が不正に満ちたものだったと主張し、スー・チーら政府要人の逮捕を正当化した。

 なぜミャンマー国軍は、ほとんどイチャモンのような主張を掲げてまでクーデタに踏み切り、さらに反対を強硬に押さえ込もうとするのか。そして、クーデタに不満があったとしても、なぜ多くの犠牲者を出しながらも抗議デモがここまで広がるのか。

 今回の騒乱は、ミャンマーが抱えてきた4つの問題が表面化した結果といえる。

画像制作:Yahoo! JAPAN
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形だけの民主化への不満

 第一に、ミャンマーは民主化したはずなのに民主化していなかったことだ。

 この国では1988年にクーデタで軍が実権を握ったが、2008年に新憲法が発布され、2010年からは選挙が行われるようになった。これと並行して、それまで規制されていた政治活動も解禁された。

 しかし、この民政移管こそ今回の対立の導火線だったといえる。というのは、民政移管後も国軍は政治、経済の両面で大きな力を握り続け、実質的には軍事政権時代と大きく変わらなかったからだ。

 そもそも現在の憲法は、軍事政権時代の末期に国軍が、自らの権力を揺るがさないことを大前提に起草したものだ。そのため、治安を司る内務大臣や国防大臣は軍によって任命されるなどシビリアン・コントロールが当然のように機能しない上、議会の25%を軍人が占めることも定められている。

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 このように国軍が大きな力を握り続けていたことは、形式的な民政移管後も国民の不満の火種としてくすぶり続けたのである。2015年総選挙でスー・チー率いる国民民主同盟(NLD)が政権与党の一角を占めた結果、実質的な民主化への期待はさらに高まり、2020年5月には各政党の代表などからなる委員会が憲法改正案を議会に提出するに至っている。

崖っぷちの既得権益層

 ところが、ミャンマーの憲法によると、憲法改正には上下両院それぞれの75%の賛成が必要になる。先述のように、議席の25%を軍人が占めるため、憲法改正は限りなく難しい。これも、形式的な民政移管を主導した国軍が、自分たちの権力を脅かされないようにするための「安全装置」といえる。

 その結果、議会にNLDが提出した114の修正案は、国軍が支援する連邦団結発展党(USDP)の抵抗でほとんど否決され、各州の議会などで少数民族の言語の使用を認める項目など、わずか4案が承認されるにとどまった。

 これが多くの国民の不満をさらに高めたことは不思議でなく、同時に国軍には自分たちの特権が脅かされるという危機感が高まった

 このタイミングで行われたのが、2020年11月の総選挙だった。この選挙でスー・チー率いるNLDが上院224議席中135議席、下院440議席中255議席を獲得し、初めて単独政権を樹立できることになった。その一方で、USDPが上院で7議席、下院で26議席と圧倒的な少数派に転落したことは、これまで以上に国軍の危機感を高めた。

 こうして、新政権の新閣僚が議会に初めて着席する予定だった2月1日、国軍はクーデタに踏み切ったのだ。だとすると、国際的な批判を意に介さず反対派を押さえ込もうとする国軍には、自分の立場を何がなんでも死守しようとする既得権益層の姿がみえてくる。

生活苦が拍車をかけた抗議デモ

 事態をここまで悪化させた第二の理由は、この10年「東南アジア最後のフロンティア」ともてはやされたミャンマーで経済が成長しても生活がほとんど改善しなかったことだ。

 民政移管後のミャンマーには各国からの投資が相次ぎ、好景気に沸いた。国際通貨基金(IMF)の統計によると、2012~2019年のGDP 成長率は平均で約7%だった。ちなみに、この間のアジア平均は約6.6%で、ミャンマーはこれをわずかながら上回った。

 ところが、大量に資金が流入した副作用で、同じ時期のミャンマーのインフレ率は平均約5.9%にのぼり、アジア平均3.3%を大きく上回った。つまり、資金が過剰に流れ込んだ結果、経済成長の恩恵が物価高で相殺される割合がミャンマーでは周辺国より高くなったといえる。

 要するに、表面的な景気の良さとは裏腹に、生活の満足感を得にくい状態が生まれたのである。

 これに拍車をかけたのがコロナだった。アメリカに拠点をもつ国際食糧政策研究所の調査によると、ミャンマーに暮らす女性のうち貧困状態にあると判断された割合は、2020年1月には16%だったが、11月の調査では62%にまで跳ね上がった。

 フランス革命以来、あらゆる政治変動の影には生活苦への不満があった。現代の香港タイでもそれは同様だが、ミャンマーも例外ではない。

 生活がそれまで以上に悪化するなか、既得権を守るためになりふり構わない国軍の姿が、すでに充満していた国民の怒りを爆発させる火花になったとしても不思議ではない。

 2010年の民政移管の一つのきっかけになった2007年の大抗議活動では、国連の調査団が犠牲者をおよそ100人と発表したが、今回の死者は既にそれを上回っている。これほどの犠牲を払いながらも市民が抵抗を続ける背景には、生活苦への不満と怒りが無視できないのだ。

間合いを探る国際社会

 そしてミャンマー情勢を悪化させた第三の理由は、先進国が人権や民主主義を強調しながらも圧力に及び腰にならざるを得ないことだ。

 クーデタを受け、アメリカ、イギリス、カナダ、ヨーロッパ連合(EU)などは、スー・チーなどの釈放を求め、ミャンマー国軍に制裁を導入したが、これはシンボリックな意味合いが強い。クーデタの首謀者フライン将軍など国軍幹部は、2017年から注目されることの多いロヒンギャ危機で、少数民族ロヒンギャの虐殺を主導した疑いにより、資産凍結などの形で以前から各国の制裁の対象になってきていたからだ。

 制裁に及び腰である点では、日本も同様だ。日本政府は従来「内政不干渉」を強調し、軍事政権時代には欧米が全面的な制裁を敷くなか、ミャンマー向け援助を続けた経緯がある。今回の場合、アメリカなどとの関係への配慮からか、新規援助の凍結など、これまでより踏み込んだ対応を見せているものの、すでに提供を約束していた援助に関しては、その限りではない。

 実質的な制裁の強化をためらう先進国の視線の先には中国やロシアがある。

 なかでも中国は、軍事政権時代から国軍との関係を深め、ミャンマー進出を加速させてきた。ミャンマーの天然ガスのほとんどは中国に向けて輸出されており、中国からインド洋へ陸路で抜けるルート上にあるミャンマーは「一帯一路」構想でも重要な位置にある。

 そのため、国連安全保障理事会で強い制裁を主張したアメリカやイギリスに反対するなど、中国は事実上、国軍の保護者になっている。ここで強い圧力を加えれば、国軍をさらに中国側に押しやることもなるため、先進国は形だけの制裁で様子をみるしかない。

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 これに対して、ミャンマーのデモ参加者の間では反中感情が急速に広がり、中国系の企業や工場に対する襲撃・放火なども相次いでいるが、一方の中国政府はミャンマー国軍に「断固たる取り締まり」を求めている。

 これに加えて、ロシアもやはり「内政不干渉」を強調し、国連安保理でアメリカなどが提案した国軍への制裁に反対して中国に足並みを揃えている。そのうえロシア政府は3月26日、国軍への軍事協力を増やす方針を示すことで、抗議デモに対する鎮圧を批判する欧米を牽制した。

 こうした国際環境は、弾圧とデモの悪循環を止められない一因といえる。

ミャンマーに迫る内戦の危機

 そして第四に、「ミャンマーという国が‘あることになっていた’」ことだ。つまり、これまで「ミャンマー=ビルマ人の国」という一種の神話のもとで迫害されてきた少数民族の問題が、抗議デモの広がりとともに重要性を増しているのである。

 ミャンマーの人口の約70%はビルマ人が占めるが、その他に135の少数民族がいるといわれる。このうち、北部カチン州のカチン独立軍、東部山岳地帯のカレン民族同盟などは、1940年代から自治や独立を求めて軍事活動を行ってきた。

 この対立の背景には、歴代政府がビルマ人を優遇してきたこと、とりわけ軍事政権時代に少数民族の土地にビルマ人を移住させる「ビルマ化政策」が推し進められてきたことがある。

 つまり、ビルマ人以外も数多く暮らす実態をないものとして扱い、「ミャンマー=ビルマ人の国」を強制しようとしたことが少数民族の抵抗を招いたわけで、その意味ではやはりビルマ人であるスー・チーなどNLD指導部も、必ずしも少数民族から好意的にみられてきたわけではない。

 そのため、軍事政権末期の2007年の大抗議活動の際、少数民族の武装勢力はこれにほとんどかかわらなかった。

 ところが、今回は様相が異なる。カチン独立軍やカレン民族同盟などはデモを支持し、2月半ば頃から各地で国軍との衝突を激化させている。これまで抑圧されていた少数民族は、一躍ミャンマー情勢の台風の目になりつつあるのだ。

 2007年の抗議活動のリーダーの一人で、現在は国際的に著名な人権運動家であるキン・オンマ氏は3月22日、シンガポールメディアの取材に「ミャンマーの実権を握るのが誰かを決めるのは結局、少数民族かもしれない」と述べている。

今後の動向を左右するアラカン軍

 ミャンマーの行方を考えるとき、とりわけその動向が注目されるのがアラカン軍だ。

 アラカン軍は西部の少数民族ラカインを中心に自治を求め、近年ミャンマー政府・軍と最も激しく争ってきた武装組織で、2019年だけで国軍兵士3562人を殺害したといわれる。そのため、国軍はアラカン軍を「テロ組織」に指定し、2019年には大規模な掃討作戦を行なうなど、徹底した鎮圧で臨んできた。

 ところが、国軍はクーデタ後の3月11日、アラカン軍を「テロ組織」リストから除外した。そこにはアラカン軍が抗議デモに協力することを防ぐ目的があるとみられる。

 そのためか、他の少数民族が相次いで抗議デモ支持を表明するなか、アラカン軍は沈黙を保っている

 ここで抗議デモを支持せず、それでも最終的に事実上の軍事政権が崩壊すれば、アラカン軍は新体制のもとで立場を失う。しかし、逆に抗議デモを支持して、それでも最終的に国軍が勝てば、アラカン軍がようやく手に入れた「合法的組織」の立場はフイになる。アラカン軍はこのタイミングで動くことのプラスとマイナスを天秤にかけ、情勢を見極めようとしているとみられる。

 今後、仮にアラカン軍が抗議デモ支持に踏み切れば、国軍の旗色は怪しくなり、ミャンマー情勢が大きく動く公算が大きい。とはいえ、それは同時に、ミャンマー全土が内乱に陥ることをも意味し、難民の流出などの形でこれまで以上に周辺地域に影響が拡大することにもなる。

 いくつもの矛盾の果てに発生したミャンマー危機は、最大の山場に向かいつつあるといえるだろう。

※この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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