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美食を描かなかった美食家、手塚治虫と戦後日本の食文化の断絶

松浦達也編集者、ライター、フードアクティビスト

美食を描こうとしなかった手塚治虫

日本のマンガ史において欠かすことのできない巨人にして偉人、手塚治虫。マンガだけで約700タイトル、ページ数15万ページ(!)。だがそのページ量から比べると「食」の登場頻度は控えめだし、「おいしそうな食」となるとさらに少ない。

例えば『ブラックジャック』では助手のピノコが食事作りを担当しているが、ピノコの食事は作中の設定でも「マズい」とされている。

あるときはピノコの作った「3日分」相当の巨大卵焼きにゲンナリし、またあるときは「六時間やいたの」という丸焦げのパンの残骸を差し出し、「このケシズミはなんだ」とあの冷製なブラックジャックを激怒させる。あれほど冷静冷徹なブラックジャックでも食の前では理性のタガが外れるのだ。

ブラックジャックに限らず、手塚治虫のマンガにはいわゆる「美食」が描かれることは少なかった。近未来を舞台にした『鉄腕アトム』、生命という壮大なテーマを扱った『火の鳥』、野性をモチーフにした『ジャングル大帝』――。

イマジネーション豊かな手塚治虫の作風は壮大な世界観へと展開される。代表作の世界観はいずれも美食とは縁遠い。作風上も「美食」というサブカルチャーが滑り込む隙間はなく、そして当時の庶民の食文化にも「美食」というものはなかった。

うがった見方かもしれないが、戦前生まれの手塚は「美食」を作中に盛り込むのをよしとしていなかったフシがある。手塚が美食を描くのは「人並み外れて、豪奢で贅沢なディナー」など象徴的なイメージを描くときくらいだった。

手塚治虫が生まれたのは、1928(昭和3)年のこと。第二次世界大戦の戦中、戦後と食糧難だった時代に多感な頃を過ごした。食うや食わずやという時代に育ち、戦後の焼け野原で命があまりに軽く扱われる様を目の当たりにした。

自身をモデルにした自叙伝マンガでもたびたび戦中、戦後の「食」の光景が描かれている。あくまでフィクションとして描かれているが、『すきっ腹のブルース』では深夜にイモ畑に忍び込んでイモを掘って盗み、ふかして腹を満たすシーンが描かれている。

戦後の食糧難期には、他人の畑に植わっているイモを盗んでまで口に入れなければ、腹など満たされなかったのだ。

「昭和二十年、長い戦争が終わって人々はサイテイの暮らしをしておりました。なにしろ、人間ひとりにお米はカップヌードルのカップ一ぱい半くらいしか配給されずそれもときどき、メリケン粉だったりイモの粉だったりしたのであります。もちろん、高いお金を出せば肉も買えたのですが、ふつうの家に、そんなにお金があるわけでないのでありました」

実はグルメだった手塚治虫

だが実は、戦中戦後の食糧難の時代を生き抜いた手塚治虫は相当の食いしん坊だった。自叙伝マンガ『ボクのまんが記』(朝日新聞出版)でも「まんが映画のつぎには食べものがすき」と明言している。

後に海外に出かけるようになった手塚は「ボクのたのしみは、旅行さきでその地方の名物やらお国料理を、かたっぱしからたべ歩くことです」と告白している。

もっとも食いしん坊だったからといって、まったく好き嫌いがないというわけでもなかったらしい。特にアメリカの食べ物には苦労していて「アメリカには、へいこうしました。なにしろ、なにもかもまずいんです」と毛嫌いしていた。

「肉なんか大あじで、わるくいえばクツをかんでるみたい。そのうえ、なまやけが多いんで、中が赤くって、血なまぐさくって、どうもいけません」と手塚はアメリカでステーキを食べるときに「ベリー・ウェルダン」と注文したという。

以前書いた「90年前のレシピに見る、肉焼きはどう進化したか」という記事のなかで、「1932(昭和7)年6月30日付の朝日新聞「簡易家庭洋食講座【4】」には「ビーフステーキはこんな風に焼く」と「ビフテキ」の焼き方がていねいに説明されている。」と書いた。

肉は「ぜひとも極上等部位、例えばヒレー、ロース、ラム(※ランプの意)の如く結締織の発達してをらぬ極軟い部分をお求めください。

新しい肉は硬く、古い肉は軟らかいということになります。(中略)神経質の方は古い肉でちょっと光沢を失ったものは避けるような有様も見受けられますが、いま一層肉に対する認識を深めていただきとうございます。

食べなれた方は半熟程度に焼き、ナイフをいれると赤いしるが出る位に焼いたのを喜びますが、それでは気持ち悪いと思しめす方は十分火を通しても差し支えありませぬ。

ほぼ現代でも通用するほどの見識だが、このレシピが掲載された昭和初期から30年経った高度成長期の昭和30年代にも手塚治虫のように赤身を「生焼け」だと敬遠する人もいた。

戦後、日本のメディアからステーキが消えた

そして間に戦争が挟まったこともあり、牛肉のレシピなどは停滞……いやもっと言うと後退したようさえ見える。

その後の朝日新聞の過去記事で「ステーキ」が載ったのは、戦前で1934年にレシピ、1937年にオリンピック料理解剖、1941年に米国人の食傾向の3回だけ。戦後初めてステーキが掲載されたのは1961(昭和36)年のことになる。

「一口ビーフステーキ_おそうざいのヒント」のレシピがそれだ。

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編集者、ライター、フードアクティビスト

東京都武蔵野市生まれ。食専門誌から新聞、雑誌、Webなどで「調理の仕組みと科学」「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども。新刊は『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)。他『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』(マガジンハウス)ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、『マンガ大賞』の選考員もつとめる。経営者や政治家、アーティストなど多様な分野のコンテンツを手がけ、近年は「生産者と消費者の分断」、「高齢者の食事情」などにも関心を向ける。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

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