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3万円近いステーキナイフ(限定300本)が即日完売。新しいプロダクトをデザインするということ

松浦達也編集者、ライター、フードアクティビスト

一昔前「デザイン」という概念は、(少なくとも一般には)単に「見栄えのいい」「かっこいい」ものを指す言葉として語られていた。しかし本質的な意味としてはどうか。

現代における解釈としてはRalphとWandの説が一般的だろうか。少し意訳気味に言えば「与えられた環境下で目的を達成するため、さまざまな制約をクリアしながら、活用可能なリソースを投入して(マーケットやクライアントの)要求を満たす仕様を生み出すこと」となるだろう。

P. Ralph and Y. Wand: A Proposal for a Formal Definition of the Design Concept, In K. Lyytinen, P. Loucopoulos, J. Mylopoulos and B. Robinson Eds.: Design Requirements Engineering: A Ten-Year Perspective, 14, (2009), 103–136. Springer.

自己表現するのがアートなら、課題解決するのがデザイン。表現の自由度が高いアートに対して、デザインは前提としての制約がある。アートはひたすら美に依拠するが、デザインは美を経由して機能に着地する――。

昨年秋、全国のシェフが肉を求めて列をなす精肉店、滋賀県のサカエヤがステーキナイフをリリースした。”肉の匠”として知られる店主の新保吉伸さんが「切れないナイフで肉を切るストレス」を感じ、「肉を最高においしく食べるためのナイフを作りたい」という十年来の願いがようやく形になった。

きっかけとなったのは、プロダクトデザイナー、片岡哲さんとの出会いだった。

片岡さんはソニーデザインセンターでチーフアートディレクターを務め、2004年に独立。以降は各地からの依頼で全国へと赴く日々を送っていた。

その日も片岡さんは、京都のイタリア料理店のカウンターで肉とワインに頬をほころばせていた。当時片岡さんは行く先々でサカエヤの肉を扱っているレストランを食べ歩いていた。

「2019年に放送されたNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で新保さんのことを知ったんです。『この人が手掛けた肉を食べてみたいな』と思いながら番組を見ていたら、駒沢の『イルジョット』の高橋(直史)シェフが出演されていて、思い出したんです。あのとき食べた肉が衝撃的においしかったことを。そしてその後食べ歩いていても、あれ以上のステーキにはなかなか出会えなかったことを……」

「イルジョット」(駒沢)の炭火で焼かれたサカエヤの肉
「イルジョット」(駒沢)の炭火で焼かれたサカエヤの肉


呼び覚まされた味の記憶。以降、片岡さんはサカエヤのホームページに載っていた全国の「取引先」レストランに足を運ぶようになる。

サカエヤは客を選ぶ、つまりシェフを選ぶ精肉店だ。注文が入れば、どこにでも肉を卸す精肉店ではない。「プロフェッショナル」に取り上げられた当時、サカエヤの肉が食べられる飲食店は、全国でも40に満たない程度だった。


サカエヤの新保吉伸さんは、毎日のように自分の肉が扱われている飲食店で食事をする。自分の肉がどのように調理されているかを確認するためだ。

取引先の「Depth Brianza」(麻布台ヒルズ)にて会食中の新保吉伸さん(中央)。右は同店の奥野義幸シェフ、左は「イルジョット」の高橋直史シェフ
取引先の「Depth Brianza」(麻布台ヒルズ)にて会食中の新保吉伸さん(中央)。右は同店の奥野義幸シェフ、左は「イルジョット」の高橋直史シェフ


東京、名古屋、大阪、福岡、帯広、函館、熊本、沖縄……。どこに行っても自分の肉を扱う店で食事をする。なかでも地元・京都の「メッシタ・パーネ・エ・ヴィーノ」はもっとも足繁く通う店のひとつだ。当然、新保さんの信頼も厚い。

「順ちゃん(藤原順シェフ)は、ずっと僕の肉を焼き続けていて、日常的にもやり取りが多い。僕が思う肉焼きというものを体現してくれるシェフの一人なんです。やりとりはいつも冗談ばっかりですけどね。ほっほっほ」と相好を崩す。

「メッシタ・パーネ・エ・ヴィーノ」の藤原順シェフ
「メッシタ・パーネ・エ・ヴィーノ」の藤原順シェフ

ある日、片岡さんが京都の仕事でメッシタ・パーネ・エ・ヴィーノで食事をしていたとき、新保さんとカウンターで横並びになる機会があったという。

「伺うようになって3~4回めかな。たまたまカウンターで横並びになった新保さんを藤原シェフがご紹介くださったんです。最初はデザインや車の話で盛り上がって、ナイフを作ろうという話になったのは次にお目にかかったときだったかな。2021年の年末だと記憶しています」(片岡さん)

もっとも話が持ち上がった当初、片岡さんは本当に引き受けるべきか、悩んだという。

「ステーキナイフというプロダクトには長い歴史があります。もうツールとしては完成しているし、切れ味がいいステーキナイフなら専門店でも売っている。もちろん重量バランスなどを細かく調整して、自分にとって最高に使いやすいナイフなら作れるだろうけど、新保さんと僕が一緒にステーキナイフを作る意義とはなんだろう、と考えてしまったんです」

とはいえ、片岡さんにも「レストランのナイフがもっと切れれば」との思いはあった。

いい火入れをした肉を切れるナイフで切れば、肉の断面はこの上なくなめらかで、肉のジュースは内部にとどまる。切った一片を口に入れ、アゴに力を込めると、肉の繊維間にとどまった肉汁が、肉と一体となって一気に口内になだれ込み、味の膨らみが増幅する。

一方、繊細な火入れの肉を切れないナイフで切るとどうなるか。ギリギリの加減で肉の内部にとどまっていた肉汁はギシギシと切られると断面から皿の上に絞り出されてしまう。引きちぎられたような断面はその肉が持つポテンシャルを台なしにする口当たりとなり、絞り出された肉汁分の瑞々しさは肉から失われてしまう。


かくもステーキナイフは重要な役割を担っているのだ。

だが、すべてのレストランのステーキナイフの切れ味がいいわけではない。切れ味の悪いナイフの店も少なからずある。

試作段階では無数のナイフが検討材料として集められた
試作段階では無数のナイフが検討材料として集められた

なぜか。その理由を考えた片岡さんはひとつの仮説にたどり着いた。

研がれていないのではないか。

片岡さんは自分のステーキ体験を振り返ってみた。新しい店のステーキナイフは切れるが、年季の入った店ほど切れなくなっていく。

さまざまな形状のステーキナイフをサンプルとしてシミュレーションを繰り返すうちに、多くのナイフが研ぎにくいことに気がついた。その原因は形状にあった。

「ステーキナイフは、刃の根元まで丁寧に研ごうとするとハンドルとの継ぎ目にあるベベルストップ――刃の立ち上がりやハンドルとの間にあるのりしろが砥石に当たる。その『ガリッ』とした感触がストレスなんです。趣味で研ぐ僕でさえそう感じるのだから、仕事で何本も研がなければならないシェフにとっては大きなストレスになる」

調理用の包丁は”アゴ”がある分、研ぐときに角度がつけられるが、ステーキナイフはナイフの下側が刃からハンドルまで一直線になっている。刃の根元まで研ごうとすれば砥石がベベルストップやハンドルに当たってしまったりもする。

「その当たったときのストレスがシェフを刃を研ぐという行為から遠ざけてしまう。ならば、研ぐストレスが少ないナイフを作れば、シェフもナイフを研ぎ、肉を美しく切れるようになるはず。そう考えたんです」

おいしいナイフとは切れるナイフであり、切れるナイフとはストレスなく研げるナイフである――。

方向性は定まった。

ピースを外すと完成するデザイン

片岡さんには長く作りたいデザインがあった。

「コンセプトも機能も計算し尽くして綿密に構築し、最後に1つだけピースを外すと完成する。そんなプロダクトをデザインしてみたいと願っていたんです」

片岡さんがデザインを手掛けた仕事の数々(右手前のポルシェの模型は除く)
片岡さんがデザインを手掛けた仕事の数々(右手前のポルシェの模型は除く)

プロダクトの開発において、誰かの思いがそのまま形になることはとても稀だ。たいていは開発の過程であれもこれもと、さまざまな思いで形や機能が追加される。もっともそれは必ずしもプラスに働くとは限らない。

今回のステーキナイフの決定者である片岡さんと新保さんは「切れること」という絶対的かつ根源的なコンセプトを共有していた。そこで片岡さんは「切れる≒研げる」以外の要素を洗い出した。「使って心地いい」「安全」「機能的」……などなど。

当たり前のように思えて、これらを同時に成立させるのは難しい。

とりわけ「使って心地よく」は難題だ。持ち心地につかみ心地、引き心地に押し心地など、身体感覚も重要になってくる。

3Dプリンタで試作した無数のモックアップ
3Dプリンタで試作した無数のモックアップ

自らの手で何度も確かめて、重心はハンドルと刃の境界線から1cmほどのビスのあたりに設定した。重心が決まれば手の位置が決まる。手の位置が決まれば、全体の形状も決まってくる。親指と人差し指に心地いい重みを感じながら、軽く握ると心地よく手のなかにおさまる。シェイプはどんどん明確になっていった。

最後に「ひとつだけ外す」ピースについても、構想はあった。刃からハンドルへと続くひとつの直線をハンドルへのジョイントの直前、ベベルストップに切り欠きを入れる。物理的な幅は安全弁にもなり、デザインのポイントにもなる。そして何より「ストレスなく研ぐことができる」境界点にもなる。

切り欠きを作ると刃の根元に”アゴ”が出現し、ストレスなく刃元の際まで研ぐことができる。さらにハンドルのジョイント部分を研ぐ角度に設定したことで、研ぐ際のガイドラインにもなる。刃元から切っ先までブレード全体が研ぎやすくなり、切れるナイフが復活する。

「しかも切り欠き部分は美しさのポイントにもなる。サカエヤのロゴマークも自然とここにおさまりました」

ナイフの鍛造は岐阜県関市の「関兼次」に依頼した。刃は最先端の製鋼技術の粋を込めたSPG2を芯材とした65層のダマスカス鋼を使用し、ハンドルも入手困難な「縞黒檀」を確保してもらった。ジョイントもビス止めにして、長期のメンテナンス性も考慮されている。

2022年9月、新保吉伸さんも含めた関兼次との打ち合わせ
2022年9月、新保吉伸さんも含めた関兼次との打ち合わせ

ナイフのパッケージデザインはカーデザイナーの難波修さん。パッケージにもニヤリとほくそ笑みたくなる仕掛けが施されている。スズキやSUBARUなどでカーデザインを手掛け、現在はデザインコンサルタントとして国内外で活躍する剛の者だ(ハムづくりや炭火での肉焼きはプロはだしという人でもある)。

ナイフの名前は「泪(Louis/ルイ)」と命名された。千利休が天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が、自ら削り、最後の茶会に用いた後、古田織部に与えられたとされる茶さじ「泪(なみだ)」から。曲線の立ち上がり、竹の節を機能的に使うところにもオマージュを込めた。

プロジェクトスタートから、1年10か月かけてステーキナイフはようやく完成を見た。そうして2023年秋にリリースされた「泪(Louis/ルイ)」は、新保さんの「ホンマに売れるんかな……」という杞憂をよそに発売当日、肉好きやレストランからの注文が殺到。2万7500円という価格にも関わらず、300本が即日完売となった。各所からの問い合わせに、2人は再販分の数量確保に頭を悩ませている。

新保さんの思いを片岡さんが汲み、関の鍛造技術やパッケージデザインの難波さんも含め、無限のやり取りを重ねて研ぎ澄まされたステーキナイフ。その刃でカットした肉の味は段違いに美しい。

編集者、ライター、フードアクティビスト

東京都武蔵野市生まれ。食専門誌から新聞、雑誌、Webなどで「調理の仕組みと科学」「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども。新刊は『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)。他『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』(マガジンハウス)ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、『マンガ大賞』の選考員もつとめる。経営者や政治家、アーティストなど多様な分野のコンテンツを手がけ、近年は「生産者と消費者の分断」、「高齢者の食事情」などにも関心を向ける。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

食とグルメ、本当のナイショ話 -生産現場から飲食店まで-

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