志半ばで無念にも暗殺されたという、3人の戦国武将とは?
現代社会において、志半ばで政治家や経営者が病に罹るなどし、無念にも亡くなることは決して珍しくない。しかし、戦国時代は戦国武将が暗殺されることもあった。そのうち3人を取り上げることにしよう。
◎松平広忠(1526~1549)
広忠は、清康の子として誕生した。徳川家康の父でもある。幼くして父を失った広忠は、今川氏を頼り、尾張の織田氏に対抗した。最近の研究によると、一時期の広忠は織田氏の攻勢に苦戦し、子の家康を人質として送ったこともあったと指摘されている。こちら。
広忠が亡くなったのは、天文18年(1549)のことである。『岡崎領主古記』などの後世の編纂物には、岩松弥八が広忠を暗殺したと記すが、病死、一揆による殺害といった説もある。今も広忠が暗殺されたのか否かをめぐって、論争が続いている。
◎織田信勝(?~1558)
信勝は、信秀の子として誕生した。信長の弟でもある。かつては「信行」と称されたこともあったが、今は信勝という名が有力視されている。弘治2年(1556)、信勝は信長に戦いを挑んだが(稲生の戦い)、敗北した。しかし、信長は信勝を許したのである。
永禄元年(1558)、信勝は再び謀反を企てると、柴田勝家がその動きを信長に報告した。同年11月、信勝は病気の信長を見舞うため、清洲城(愛知県清須市)を訪れると、信長の手の者に暗殺された。信長が病気だったというのは嘘で、信勝を見舞いに来させる作戦だったのだ。
◎津野親忠(1572~1600)
親忠は長宗我部元親の三男として誕生したが、のちに津野氏の養子となった。しかし、親忠は父の元親から嫌われていた。家臣の久武親直も元親の意向を汲み、長男の信親の亡きあとは(戸次川の戦いで戦死)、盛親を次期当主として推したという。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で盛親は西軍に与して敗れた。その後、親直が盛親に対し、親忠が藤堂高虎と結託して、土佐半国を奪おうとしていると讒言した。結果、親忠は霊厳寺で暗殺されたが、この一報を耳にした家康は激怒し、盛親を改易したのである。