芸能人・アーティストの「政治的表現の自由」――民主主義は誰のもの? 検察庁法改正問題から考える
採決なしで「散会」となった5月15日
検事総長や検事長の定年延長を可能にする検察庁法改正案が、5月15日、内閣委員会で審議にかけられた。この日のうちに実質の強行採決が行われるのではないかとの声もあったが、質疑の後、長時間の休憩が入り、採決なしの「散会」が宣言された。
(この審議と採決の様子については、NHKによる「国会中継」がなかったため、YouTube上のチャンネル「THE PAGE」による配信動画「【国会中継】衆院内閣委員会 森法相が出席し検察定年法案の質疑(2020年5月15日)」を視聴した。)
採決は来週以降のどこかで行われると見られるが、同時に担当相への不信任決議案も提出されており、この法改正がどう決着するのか、本日の時点ではわからない。しかし、この法改正の成否にかかわらず、ひとつ確実に言えることがある。それは、日本社会における「政治的表現」の自由度が大きく変わったことである。たとえば、以下の記事がその変化をよくとらえている。
小泉今日子ら芸能人も続々抗議 検察庁法の改正案(THE PAGE)
これは今回の一件では終わらない潮流として、日本社会に定着していくのではないか。今回湧き上がった「発言」の数々は、決して唐突に起きた《理由なき流行》ではないからである。
中身(実体)の問題と、民主主義にとって重要な問題
この検察庁法改正問題には、改正案の中身の問題と、背景事情や審議採決のタイミングに関する問題がある。「政治的表現の自由」の話がどこに接続するかを見るために、問題点を整理してみよう(芸能人の発言をどう見るか、という話題だけを読みたい方は、次の見出し ー「専門家の発言と、一般市民の発言」― に飛んでほしい)。
(1)中身の議論とは、検察システムの本質が骨抜きにされかねない、という法的・憲法的な観点からの問題である。検事総長は、検察システムのトップとして、検察の全体に政治が介入することを防ぐ盾となる役どころである。内閣閣僚や国会議員やその関係者が何らかの犯罪の被疑者となった場合に、検察が法に基づいて公正・中立に活動するためには、検察が内閣の顔色をうかがう立場に置かれるべきではない。その意味での「中立性」「独立性」を保つため、検察官の身分や定年は、国家公務員法ではなく、検察庁法で定められている。
検察官は一般の公務員よりも手厚い、裁判官に近い身分保障があり、この前提があって、定年も他の国家公務員とは異なる扱いとなっている。その検察が、内閣の顔色をうかがうようになってしまっては、この職務の本質に反する。定年を延長してもらえる対象者を内閣の一存(裁量)で決めることができるとなると、検察全体が心理的に内閣に従属するようになってしまい、検察に必要な独立性・中立性が保てなくなる、というのが、中身の議論の焦点である。多くの論説が「三権分立を壊すものだ」と指摘しているのは、このことである。検察も行政権に属するという制度の形式から見ると「問題はない」ように見えるが、より実質的に見たとき、権力を分散させて《他者の目》による監督システムを随所で採用している憲法の趣旨からすると、検察組織と内閣の間に必要な《他者性》を失わせてしまう法改正には、大きな問題があると言える。
(2)ここで、改正が提案されている部分について、内閣が公正な運用をしてくれる、という見込みのもとに一任できるかどうか。反対者はみな、ここを懸念しているわけだが、ここ数年の出来事を思い返してみると、この懸念は自然なことだろう。
本来、政治から中立な立場で職務を行うべき各種行政が、出所不明の政治的圧力を受けていることを伺わせる出来事が、ここ数年の間に積み重なってきた。たとえば、文部科学行政にもこのことを疑わせるものがあり、また芸術祭などの文化行政の分野でもこれが見られてきた。とりわけ、公的助成への信頼によって成り立つ芸術文化にとっては、こうしたことが大きな桎梏となってきた(問題の一例として、一時中止および補助金について紛糾した「あいちトリエンナーレ2019」や、コロナを理由として中止になった「ひろしまトリエンナーレ」の問題がある)。
「あいちトリエンナーレ2019」補助金交付で得るものと失うものーーハッピーエンドと言えない理由
「ひろしまトリエンナーレ」の「中止」はもっとも悪い選択―-The Way We Were
(3)そして、国会の内外でしばしば「火事場泥棒」という言葉で表現されるのは、「いま」これを議案とすることのタイミングの問題である。コロナ緊急事態に伴う課題を差し置いて、「いま」、この法改正案の審議・採決に時間を割く必要があるのか。検察庁法改正は目下の緊要課題が一段落した後の議案とすればよいではないか。「いま」無理にでも通さなくてはならない裏事情があるのか。といった不満、あるいは怒りが、ここにはある。そちら側への対応で手一杯になっている議員にとっては、この複雑な法改正案の内容を吟味する余裕がないままに採決が行われてしまうことになる。この案がいま通過することは、日本の民主主義にまたもや重大な禍根を残すことになる、ということが懸念されるのである。
以上のようにとりあえず、問題の系列を三つに整理してみた。この中の(1)については、法律についての専門知識がどうしても必要となる。この関心からは、以下のものを参考にした。
【意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿 検察庁法改正案(朝日新聞2020年5月15日)
「検察庁法改正」の論じ方 検察官と政治との距離はどうあるべきか(亀井 源太郎・現代ビジネス5月15日)
検察庁法改正法案―まとめで分かった重大な事実 (園田寿・Yahooニュース2020年5月14日)
これに対して、(2)と(3)は、必ずしも法律・憲法の解釈に精通している人間でなくても、実感からの《民意》として発言することのできる問題である。
専門家の発言と、一般市民の発言
今回、弁護士会の声明など、専門家の社会的発言が相次ぎ、さらに現職裁判官がメディア上で裁判の問題点を解説する、といった異例の発言も出た。また、先に見た元検事総長の反対意見書も、新聞報道や記者会見を通じて社会にインパクトを与えている。これらの発言の内容は、先の整理の(1)を中心としながら、(2)と(3)にも民主主義・法治国家の観点から目配りするものとなっている。
日本弁護士連合会(日弁連)や東京弁護士会は、数度繰り返してこの改正に反対する声明を公表している。
元検事総長らが定年延長に反対 法務省に意見書提出へ(共同通信2020/5/14 13:16 )
「まともな法治国家とは言えない」仙台高裁の裁判官が政府批判(NHK News Web 2020年5月15日 )
一方、一般市民の発言も大きな盛り上がりを見せた。今回とくに注目されたのが、「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグを共有して発信されたツイートの多さだった。その数は600万とも900万とも言われているが、ここから何人の人が投稿をしたのかをアカウント数で見たところ、約58万8千件となったという。専門家は「政治的な投稿で短期間に数十万のアカントが参加したことは過去にあまり例が無い。通常は賛成、反対、双方の投稿が見られるが、一方の(反対の)投稿だけが拡散したのも特徴的だ」と見ている。
検察庁法改正めぐる投稿 その実態は 専門家がデータ分析(NHK News Web 2020年5月16日)
この社会現象の中で注目されたのが、多くの芸能人の発言だった。もっとも、このハッシュタグを使って最初に投稿したのは、一般の女性会社員だったそうだ。
「#検察庁法改正案に抗議します」呼びかけた女性の「小さな声、静かな意思」とは(毎日新聞2020年5月13日)
俳優や歌手、作家など、文化方面で知られている《著名人》が「これは」と思った発言を拾ってリレーすることで注目が集まり、発言の社会的影響力が増幅されることは確かにある。今回、多くの発言者は、そのことを十分にわかったうえで意見表明をしているように見える。日本でこうした影響力を社会に示した例としては、モデルでタレントのローラ氏の発言がある。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設で、工事中止を求めるネット上の署名活動が注目を集めていたところ、ローラ氏がSNSでこれへの署名を呼びかけた。
芸能人の政治的発言なぜ物議「ローラさんセレブのよう」(朝日新聞デジタル2019年1月25日)
この時に起きた否定・批判については稿をあらためて考察するとして、ここでは、こうした著名人の発言は一定の影響力を持つ、そして著名人自身がそのことを自覚して発言しはじめた、ということを確認しておきたい。
「あなたのその発言が、大勢の政治的関心に影響を与えることを自覚して」と言ったとして、この言葉は、「発言を控えてください」という意味にはならない。そういう意味になるのは、日本国憲法の制度上、天皇だけである。天皇だけは、政治的権力を行使してはならないという憲法上の禁止があるため、事実上政治的影響を持つ発言にならないよう、慎重な姿勢をとることが求められる。しかしそれ以外の著名人の場合には、自分の発言が影響を与える、という事実を自覚すればこそ、公共文化の担い手になっていける芽が出てくるのである。だから一市民としての発言を慎む理由はない。
「表現の自由」の関心から言えば、オープンな社会的発言について、法律などの専門家の発言と専門家以外の発言に優劣はない。どちらの発言も、市民の発言として、法的な重さは同じである。また、一般市民としての発言が専門的な知識を備えていなければならないということもない。とりわけ先に整理したうちの(2)と(3)の問題については、民意を発信する資格は、誰にでもある。
そして「表現の自由」をはじめとする憲法上の「精神的自由」は、受け手の側もそれぞれ自分で判断できる人々だ、という個人像を前提にしている。人気を誇るアイドルやオピニオンリーダー的なアーティストが呼びかけ的な発言をしたとしても、それに乗るかどうかは、受け手が自由に判断する。先ほど「影響力」と言ったが、この影響力を使うことは、受け手を洗脳状態に置くようなものでないかぎり、基本的に表現者の自由である。オピニオンリーダーとしての「格」を感じさせる発言か、そうでないかは、受け手が判断する自由を持っている。
だから、発言者は《賛同してもらう権利》や《批判されない権利》を持っているわけではない。発言者は、自分の立場を明らかにすることでファンを失う可能性もあるし、新たなファンや社会的リスペクトを獲得する可能性もあるわけで、そこは自分で判断することになる。「その考えには賛成できない」「ここが間違っている」という批判が出てきたとき、批判された者は、自由に反論すること(対抗言論)が期待されている。そうした発言の応酬によって議論が展開していくことは、民主主義にとっても、学問や芸術などの文化にとっても、歓迎されるべきことである。あるいは、「わかる人はわかってくれる」との期待のもとに沈黙することも、自由である。
日本の社会がいま、すべての人にとって自由で平等に政治的表現のできる社会であるなら、本稿はここで終わることができる。しかし、実際にはそうではない現実がある。今回も、発言をした著名人を叩く発言が、多く見られた。法律的解決の難しい事柄が多いけれども、「表現の自由」を妨げる要因として、看過できないものもある。そこを見ておかなくてはならないだろう。
沈黙強制にひるまない発言者たち
芸能人の発言に対しては、多くの否定的発言が見られた。たとえば次の記事がこの問題を取り上げている。
「潰す」「干される」検察庁法改正反対の著名人への中傷続々(女性自身5月11日)
小泉今日子、きゃりーぱみゅぱみゅも炎上……「芸能人は政治に口を出すな」という人々の考え方(西澤 千央)(文春オンライン2020年5月11日)
ここでは、芸能人の発言にモラル・ハラスメント(意欲を失わせるハラスメント)が集中したことが見て取れる。このタイプの言葉は、かなりのものでないと法律問題 ―「名誉毀損」や「脅迫」や「業務妨害」など― にはならない。それでも、発言者の精神的・人格的自由を塞ぎ、社会活動や内面生活に悪影響を及ぼすレベルになれば、人格権侵害となる。
しかし今回、発言者の多くはひるむ様子を見せない。
13日、自民党の泉田裕彦衆院議員が、今回の法改正案について「強行採決は自殺行為。強行採決なら退席します」とツイッターで表明し、その直後、内閣委員から外された。これに対し小泉今日子氏は「#泉田裕彦議員を応援します」とのハッシュタグを付け、同議員の行動を支持した。これが多くの注目を受けたという。
「小泉今日子「もうなんか、怖い」検察庁法“強行採決”に反対の自民議員が内閣委員外され…抗議ツイート」(中日スポーツ5/14(木)
「怖い」と言いつつ、「怖いから黙る」のではなく、「これって怖いですよね」と発言しているわけだから、臆している様子はない。
一方、歌手の世良公則氏は、コロナ経済政策に関して、ツイッターで政治的発言を発信している。そのことで、芸能人は歌って踊るだけでよいと非難されたことについて、「侮辱は許しがたい」と発言した。その後、この人物の発言も、臆することなく続いている。
世良公則「アーティストを激しく侮辱」 一部に「歌おう踊ろう言ってればいい」の声で怒り(デイリースポーツ)
こうした動きは、突然に始まったものではない。2015年にも、実質強行採決と言うべき状況で成立した安全保障関連法制について、反対の意思表示をする芸能人・文化人がかなりの数に上った。が、名前と発言内容をはっきりと出して発言している人の数は、今回のほうがずっと多い。この変化の背景事情については、以下の記事で詳しく解説されている。
政治に対して声を上げ始めた芸能人──「#検察庁法改正案に抗議します 」の背景(2020年5月13日)
民主主義は誰のもの
ここで、専門家の領域(行政)とすべての人に開かれた領域(民主主義)とを分けて、整理しておこう。
行政は、専門知識を必要とする。組織上、その頂点にあるのが内閣である。一方、民主主義ないし《主権者であること》は、専門知識を要求してはいない。その国、その社会に生きる、すべての人が、民主主義の担い手として、発言資格を持っている。そのニーズを専門知識に照らして実現していくのが、立法と行政の仕事である。
たとえば、欠陥のない安全な住宅に住みたいと「言う」資格、「ここに欠陥がある」と「言う」資格は誰にでもあるもので、そのために建築士の資格を取らなくてはならないということはない。そうした素人の「声」を、その代表者である議員がキャッチして、行政のトップに伝えたり、政策をまとめたりする「場」が国会なのだ、と言ってもいい。こうした流れの中で、まずは言いたいことを「言う」資格が誰にでもあるということが、「表現の自由」なのである。これがなかったなら、民主主義は成立しない。
この民主主義の担い手としての発言資格、ということで言えば、法律や統治機構に関する専門的知識をもっていない人々が発言をする自由は、当然にある。ここで「歌手だから(その領域の知識は)知らないかもしれないけれど」とたしなめることに意味はない。
さまざまな立場の人の声を集約して、必要な政策を決断していかなければならない今は、必要な事柄についてはニーズを伝え、適切でない政策や不十分すぎる政策には異議の声を挙げることも必要である。こうした批判は、良心的な政府や自治体にとっては、有益情報となるはずである。このことについては、以下の記事で論じた。
コロナの時代の「言論の自由」ーー 「緊急」の中でこそ「批判の自由」が大切な理由
そして今は、芸術・芸能関係者や飲食業の関係者が、政策の成り行きを死活問題として見守っている《当事者》である。
民主主義の担い手としての発言資格は、誰でも平等に持っている。だからそれを特定の人々にだけ否定したり禁止したりしてはならない。制約するとしたら、犯罪の教唆など、よほどの理由(やむにやまれぬ理由)がある場合だけだ。というのが憲法上の「表現の自由」の基本ルールなのだが、このルールは、国や自治体に課されているルールで、一般人が憲法から直接にこのような拘束を受けているわけではない。なので、一般人が一般人(芸能人も公権力の担い手ではないという意味で一般人となる)の言論を嫌って「黙れ」と「言う」ことについては、原則としてルールらしきものはない。しかしそれでも、この「黙れ」という声について、もう一歩踏み込んで考えてみる必要があるだろう。
その考察は、稿を改めたいと思う。
おそらく後戻りしない《はじめの一歩》
今回、政治的発言に参加したのは芸能人だけではない。数としては、芸能人ではない人のほうがはるかに多いだろう。これは、コロナ対策への関心や不安を通じて、多くの人が政治への当事者感覚を持ったからではないだろうか。芸能人の発言は、そこにきっかけとなる影響力を与えたとは言えるが、その芸能人のファンだからという理由だけで何も考えずに政治的発言に参加した人はいないだろう。
政治過程、つまり民主主義を担うのは、社会を構成している人々、全員である。だから、すべての人に、政治に関心を持つ資格も、自分の関心やニーズに沿って《ものを言う》資格もある。今、いくつかの要素が重なって、そうした当然のことに多くの人が《自分事》として気づいたのだとすると、これは一過性の流行ではない、長い流れになるのではないか。コロナが市民意識に変容をもたらしている、その《はじめの一歩》を、私たちは今、経験しつつあるのかもしれない。