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「ひろしまトリエンナーレ」の「中止」はもっとも悪い選択―-The Way We Were

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
広島・尾道水道の朝。「芸術の自由」の夜明けは…(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

1 延期でも開催方式の変更でもなく「中止」

広島県は芸術祭「ひろしまトリエンナーレ2020」を中止とする決定を下した。その理由は、新型コロナウィルス感染拡大防止を受けてのものだという。県は、新型コロナの感染拡大により、「現地での滞在型創作活動などの準備が進まない」「誘客促進が難しい」ことを中止の理由としているという。

「ひろしまトリエンナーレを中止 感染拡大で、9~11月開催予定」共同通信4/10(金) 配信

「ひろしまトリエンナーレ中止 コロナ感染拡大受け」朝日新聞デジタル4/10(金) 配信

この芸術祭については、県が実行委員会とは別に、展示内容を選定する「アート委員会」を新設する方針を固めていた。この方式に対して、作家や芸術関係の専門家から強い批判の声が上がっていた。

「ひろしまトリエンナーレ、中止へ。広島県「コロナの影響」」美術手帖4/10(金) 配信

この「ひろしまトリエンナーレ」が「あいちトリエンナーレ2019」後の日本の文化芸術助成の航路を占うイベントであったとするならば、日本の「芸術の自由」は今、係留を失って流れはじめた船のようにも見える。別の選択を模索する機運は生まれなかったのだろうか。筆者には、中止ではなく別の選択をとることのほうが、「公」がとる発想として自然だと思われるのだが、そうした機運はなかったのだろうか。

2 「空中分解」を招いた事前審査方式

昨日4月9日には、この「ひろしまトリエンナーレ」の芸術監督・中尾浩治氏が3月末で辞任していたことが明らかにされた。

「広島の国際芸術祭監督が辞任 今秋開催、「検閲的」と県批判」共同通信4/9(木) 18:57配信

先に紹介した「美術手帖」の記事は、この状況を「実質的に空中分解」と評しているが、言い得て妙である。この「空中分解」を修復して出直す手間をかけるよりは、中止にしたほうがはるかに楽な選択だろう。世の中には「引き返す勇気」というものもあり、状況から見て開催方法を変えたり中止したりするほうが賢慮として称賛されるべき場面もある。しかし、この「中止」については、「引き返す勇気」という言葉が当てはまるとは、筆者にはどうしても思えない。

この「空中分解」を引き起こした事情を振り返ってみたい。

「ひろしまトリエンナーレ」については、実行委員会とは別に、展示内容の全体を選定する「アート委員会」を新設する方針が発表されていた。この方式に対して、作家や芸術関係の専門家から強い批判の声が上がっていた。芸術監督の辞任も、この「アート委員会」のあり方が「検閲的な運営」であって賛同できない、との理由による。

発表によると、この「アート委員会」は、観光、地域経済、芸術の各分野の有識者7人程度で構成され、展示内容の決定は、原則として全会一致とされていた。

「広島のトリエンナーレ、事前確認の方針 美術家らは批判」朝日新聞デジタル3/18(水)配信

より詳細には、その「各分野の有識者」とは、商工会議所会頭や観光協会長、美術・博物館長らで構成されることになっていたという。そして、NPO法人アートベース百島の代表で美術家の柳幸典氏と、AIR Onomichi代表で尾道市立大芸術文化学部の小野環教授は、20年度(3月末まで)で退会するよう県から通知されたと報じられている。これにより、実行委に現代美術の専門家はいなくなる。

「揺らぐ「ひろしまトリエンナーレ」 外部検討委が展示内容を選定、美術専門家除外も」毎日新聞デジタル4/2(木)配信

上の報道で、県はアート関係の企画全般を統括する総合ディレクターも置かない予定としている、と報じられていたので、「芸術監督」はどうなったのかと案じていたところ、3月末で辞任していたことが明らかになったわけである。

この背景には、プレイベントとして行われた「ART BASE百島」での展示「百代の過客」の中に、「あいちトリエンナーレ2019」の中の「表現の不自由展・その後」で問題となった展示作品と同じ版画作品や映像作品が含まれており、これが抗議行動の対象となった、という経緯がある。ちなみに、筆者も現地でこの企画のトークイベントに登壇したが、抗議が入る前の展示はまったく静穏で、写真撮影も自由だった。

写真 ART BASE百島「百代の過客」展。抗議が入る前の展示は静穏で、写真撮影も自由だった。撮影 志田陽子(2019年10月6日撮影)
写真 ART BASE百島「百代の過客」展。抗議が入る前の展示は静穏で、写真撮影も自由だった。撮影 志田陽子(2019年10月6日撮影)

筆者自身も、上記の朝日新聞、毎日新聞記事を含め、いくつかの場所でこの「アート委員会」の問題について発言してきた。その骨子をまとめると、まず、ひろしまトリエンナーレは「文化の創造」とともに「地域経済の活性化」を目的に掲げている。このこと自体は自治体の裁量であって、芸術祭が地域活性化を期待して企図されることは、あってよい。文化芸術基本法には、芸術が地域経済や観光と連携する可能性についても明記されている。

ただしこの文化芸術基本法は、前文で、表現の自由の重要性を深く認識し、表現活動をする人々の自主性を尊重すると明記している。地域経済の活性化を期待しての企画であったとしても、その本旨を見失ってはならないとわざわざ念押ししているわけである。したがって、その本旨を見失い、芸術を「地域活性化」という経済目的に従属させてしまうのでは、芸術助成や芸術支援の名に値しない。

この方式を「従属」と言い「芸術支援の名に値しない」と言うのは、次の理由による。

この案では、芸術関係者の人数が相対的に少数にとどめられ、芸術専門家を信頼した制度とは似ても似つかない形になっている。

また、現代美術の専門家がゼロになったことによって、すでに確立し固定した芸術観による選別が行われることが見えている。それではすでに各地域で手厚い保護が実現している古美術・伝統美術への文化財保護との違いが不明になり、「芸術祭」を銘打つ意味が見いだせなくなるだろう(筆者自身は古美術への愛好心もあり、古美術・伝統美術の価値を軽んじる意図はまったくないが、現代美術への理解と支援を見失った芸術祭は、明日の芸術の苗床としての役割を果たすことができない)。

そして何より、決定方式が全員一致方式になっているために、上記の相対的人数の問題以上に決定的・絶対的な問題として、芸術専門家が独自の判断を生かす道が封じられているのである。

全員一致方式をとるということは、委員の一人からでも物言いがついたら、企画全体が先へ進めなくなるということである。物言いの対象となった作品の作家や、これを推す芸術専門家にとってみれば、その一点にこだわるかぎり自分のせいで芸術祭の全体が先へ進まないのだ、というプレッシャーをかけられることとなり、これでは取り下げざるを得ない心理状態に追い込まれる。これは、「本人が萎縮しなければいい」と言えばすむような抽象的な萎縮ではなく、本人の選択の自由を実質的に奪うような、具体的で重い萎縮効果を生む方式と言える。

こうした方式を強行しようとすれば、上記の意味での萎縮を招くことは必至だから、挑戦的な作品を出す人は減ってしまう。また、たとえ自分の作品は無事に選定されると見込まれるとしても、そのような仕組みの中で選ばれることを是としない作家は参加してこないだろう。芸術家の多くは「参加しないこと」も一つの「表現」であることを熟知しており、参加するに値する芸術祭を自主的に取捨選択している。それで「芸術祭」としての質を保てるかどうか。

社会一般の「表現の自由」に公権力のほうから否定的に介入する場合と違って、支援・助成に選別が入ることの全般を「検閲」と呼ぶことは難しい。しかし、その選別のありかたが憲法・文化芸術基本法に言う「表現の自由」を無視するものであったり、一度採択が決まって信頼関係が出来上がった後にそれを取り払うものであったりしたときには、検閲と同じだけの萎縮効果を生み出す点で、憲法の趣旨からも文化芸術基本法の趣旨からも許容されないと見るべきである。

この「ひろしまトリエンナーレ」で採用されるとされていた方式も、これまでの判例から考えると、憲法21条2項が禁じる「検閲」とは言えないだろう。しかしそれは、憲法21条2項を掲げて裁判を起こしたときに勝てるか、という意味で「それは法律論としては難しい」という話であって、この方式が当事者である芸術家や芸術専門家にとって「検閲そのもの」と感じられることは十分にうなずけることである。その声は、きちんと上げることが必要である。

そしてその声を無視して芸術監督を続けることは、芸術専門家のあり方として名誉とはならず、専門家としての良心に反する、あるいは専門家としての汚点になりうるとの判断が、芸術監督の側にあったのではないか。それは、上に参照した4月9日・10日の記事にある芸術監督のコメントから読み取れる。

古美術の擁護は確立しているのだが…。(福岡市立美術館・東光院仏教美術室 志田陽子・2019年1月25日撮影。2020年4月10日現在、休館中)
古美術の擁護は確立しているのだが…。(福岡市立美術館・東光院仏教美術室 志田陽子・2019年1月25日撮影。2020年4月10日現在、休館中)

3 感染症拡大が真の理由なら

県は、中止の理由を、新型コロナウイルス感染拡大としている。

その理由が真の理由であるか疑いたくなるのが自然だとは思うが、ここでは百歩譲って、この説明どおりの理由について――感染症拡大によって実施が難しい(現地での滞在型創作活動などの準備が進まない)、実施のメリットがない(誘客促進が難しい)、との理由について――考えてみよう。

アーティストの滞在型創作活動は、このような時だからこそ、推進すればよいはずである。日頃の活動を自粛せざるを得ず、収入や活動の場を失っている芸術家は多い。そうした人に、腰を据えて活動をしてもらえる場を提供することは、公共事業としても称賛されるべきことと言える。

また、いったん自治体の企画として推進された文化芸術支援事業を、誘客促進が難しいとの理由でなくすことは、まさに文化芸術を経済の都合に従属させていることになる。文化芸術支援はたしかに地域活性化につながり、経済的メリットも生み出すことが期待されるかもしれないが、経済の領域で行う先行投資とは異なるものである。採算が取れない、損益分岐点を割り込む、といった発想で中止することは、文化享受者の福利促進をはかる文化芸術基本法の趣旨からいえば、芸術祭のもともとの意義を誤解していると言わなくてはならない。

感染拡大を防止するために、今は人の移動を促進する行事は控えたい、という理由であれば、理由として成り立つ。しかし、これが理由であるならば、中止以外の選択肢はいろいろある。延期して開催することや、開催方法を変えて人の密集を避け、配信などの方法でコンテンツを提供することはできる。たとえば、ルーブル美術館をはじめ多くの美術館がサイトを持っており、展示内容に関する検索サービスや動画を提供している。

ルーブル美術館サイト

ルーブル美術館サイト(日本語版)トップページ公開画像
ルーブル美術館サイト(日本語版)トップページ公開画像

現在、感染症拡大を防止するための自粛要請によって、多くのアーティストが活動の機会を奪われ、疲弊している。鳥取県のように、このことを憂慮して、無観客講演を配信する場合に経費を助成すると決めた自治体もある。「公」がおこなう文化支援とは、このように、民間企業がおこなう投資の発想ではなく、いかにして福利を一般の人々に還元するか、という発想に基づくべきである。

「知事「無観客公演・配信を助成」」NHK NEWS WEB 04月02日配信

このように、自粛に伴う文化芸術の衰退を防ぐために、どのような方策がとれるかを「公」が思案しなければならないとき、企画が進んできた「今そこにある支援」を取り払うことは、大きなマイナスになってしまう。

さらには、本日ちょうど「文化観光推進法」も可決・成立した。

「博物館や美術館などを観光拠点に 文化観光推進法が成立」・NHK NEWS WEB 4月10日

文化観光推進法可決 NHK News Web 公開画像
文化観光推進法可決 NHK News Web 公開画像

これは、一定の基準を満たした各地の博物館や美術館、寺社仏閣などを拠点施設として位置づけ、文化についての理解を深めることを目的とする「文化観光」を推進するための法律である。施設の設置者などが、解説の多言語化や学芸員の確保といった拠点施設の機能強化に関する計画などを作成し、国は、認定を受けた計画に基づいて協力するといった内容である。

これもまた文化芸術を地域経済の手段としてのみ見る成り行きにならないか、との警戒をもって見守る必要はあるだろう。また、7日に「緊急事態宣言」が行われたばかりで、感染拡大につながる人の移動を(強制ではないが要請によって)抑制しようとしている時に、タイミングが悪い、という指摘もしようと思えばできる。

しかし、コロナ対策の緊急性とは別に、最悪の危険は回避できた後の社会全般の回復に向けて、通常モードでの政策・立法も進めておくという二本立ての思考をすることは差し支えない。むしろ「コロナ自粛」で疲弊した社会へのリハビリ策を考えることは、必要なことと言える。

そうであればなおさら、皮肉にも同日に、「ひろしまトリエンナーレ」がこれと真逆の方向に舵を切ったことは悔やまれる。本来であれば、「空中分解」を引き起こした選定方式を見直し、芸術専門家の位置づけを元に戻して、そこから立て直すことが最良の選択だったはずである。

もしも今から体制を立て直すには時間と手間がかかるというのであれば、そのためにこそ、「コロナ」を利用すればよい。「コロナ」がくれた時間だと考えて、分岐の手前の地点に戻って立て直しを図れば、推移を見守る人々も納得したのではないだろうか。そして不参加を表明した人々との関係修復を図って「コロナの時代の芸術祭」をどうするか知恵を募れば、戻って協力する人も現れたのではないだろうか。

The Way We Were

日本国憲法前文には、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」、という言葉がある。この「名誉」という言葉は、「文化国家」として立ち直ることを掲げた憲法制定とセットになっている言葉である。芸術祭において、国内・国外からともにその見識を評価される「名誉」とは、どういうことを言うのだろうか。その中身については、専門外の憲法研究者がわかったようなことを言うことを慎み、芸術系の専門家の営為に委ねるべきことではある。が、日本各地で行われる芸術祭が、規模の大小、経費の大小ではなく、創意と意欲において、国内・国外の芸術愛好家から「さすが」と尊敬されるような芸術祭であってほしいという思いを持っている。

「ひろしまトリエンナーレ」のこの状況での中止は、「ここから体制を立て直すより、コロナのせいにしてやめてしまったほうが楽だ」という選択だったのだろうと勘ぐられても仕方がないだろう。それをよしとしないのであれば、むしろこのような状況だからこそ、文化芸術に対して手を差しのべる道を探るべきである。一度は「芸術祭」を行うと決めた自治体の名誉にかけて、「さすが、ひろしま」と私たち唸らせる意志と創意を見せてほしい。

その名誉挽回の道は、このコロナ禍の中、この芸術祭を中止した後でもまだ、さまざまな形で開かれている。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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