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「あいちトリエンナーレ2019」補助金交付で得るものと失うものーーハッピーエンドと言えない理由

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
サモトラケのニケ像。今では誰もその価値を疑わないが、復元には長い時間を要した。(提供:アフロ)

突然の方向転換

3月23日、不交付とされていた「あいちトリエンナーレ2019」への文化庁補助金が、一転、交付されると発表された。大村秀章愛知県知事も記者会見を行い、このことを報告した。

文化庁の決定は、現在、文化庁ホームページで見ることができる。

令和元年9月26日報道発表・不交付決定

https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1421672.html

令和2年3月23日報道発表・交付決定(交付決定額 6661万9000円)

https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/20032301.html

採択後の不交付決定も異例中の異例だったが、いったん行われた決定を変更する決定が行われたということは、さらに前代未聞の出来事である。これを受けて翌24日には、参議院議員会館内でも少人数で文化庁へのヒアリングが行われた。筆者はこのヒアリングに同席することができた。本稿では、このヒアリングで聞くことのできた話も含めて、今回の決定が芸術表現の自由と社会にとってどのような意味があるのか、あるいは、ないのか、考えてみたい。

減額の申し出と「遺憾」表明

文化庁からの発表と、大村愛知県知事の記者会見を総合すると、こうなる。

今回の決定に先だつ3月19日に、愛知県側から文化庁に「意見書」が提出された。その内容は、「安全や円滑な運営を脅かすような事態が想定されたにもかかわらず、県として文化庁に申告しなかったのは遺憾」として、補助金交付の金額を減額した上で交付を再申請する、というものだった(共同通信3月23日および同日にテレビ放映された記者会見)。これについては大村知事が行った記者会見で、「文化庁に心配をかけた」との謝罪の言葉も述べられた。

補助金については、警備などにかかった費用約1200万円を愛知県の支出とすることにして、文化庁の補助金から減額した上で、残額の交付を受けたい、というものだった。

(意見書の全文は、3月26日現在、公開されてはいないようで、筆者は閲覧できていない。文化庁ヒアリングのさいに、受理した側の文化庁から開示される見込みはないかと尋ねてみたが、応じる答えは得られなかった。)

文化庁はこれを受けて、申し出のとおり、一部減額、一部交付を決定したわけである。

その前提として、26日を過ぎると愛知県側が提訴に踏み切ることになっていた。このタイミングでの和解は、訴訟を避けると同時に、年度をまたぐことを避けたものと考えられる。謝意とともに不交付時の文化庁の見解を受け入れた今回の交付劇で、突然の方向転換は、愛知県知事のほうにあったと言ってよい。なぜなら、今回の補助金不交付は、もともと金銭の問題ではなく、補助金の不交付が与える意味のほうに重要性がある、いわば「シンボルの政治」※というべきものだったからである。この「シンボルをめぐる政治」において、愛知県知事側が折れたことは、何を意味するのか。

 ※「シンボルの政治」については、拙稿「シンボルをめぐる政治と憲法」法学セミナー2016年7月号、拙稿「ステレオタイプの政治を超えて──トランプ現象が可視化したもの」法と民主主義 2017年4月号を参照してほしい。

評価が確立している古美術への擁護は手厚い。観覧者からの苦情や社会的議論もない。が、「芸術」には人の心を刺激し議論を誘発する役割もある。(福岡市美術館・東光院仏教美術室・志田陽子撮影)
評価が確立している古美術への擁護は手厚い。観覧者からの苦情や社会的議論もない。が、「芸術」には人の心を刺激し議論を誘発する役割もある。(福岡市美術館・東光院仏教美術室・志田陽子撮影)

声をあげた人々の成果

愛知県知事が何を手放したのかを考察する前に、まずは、社会で問題が可視化され、共有されたことの意義は大きい。

2019年8月3日の「表現の不自由展・その後」展示中止から、9月26日の不交付決定、そして展示の再開と閉会を経て、3月23日の交付決定に至るまで、「あいちトリエンナーレ2019」をめぐって起きた出来事は、さまざまな角度から報じられ、論じられ続けてきた。あっさりと決定を飲むのではなく、これを問題視し、展示再開と補助金交付を求めていた当事者、芸術表現の自由や文化政策の先行きを考えて声明を発表した多くの識者団体や市民団体、そしてそれらを大きく報じたメディアの動きが続いていた。

これらの声と、多くの人の注目が、この補助金問題の最終的な当事者となった愛知県知事と文化庁の双方に影響を与えたことは間違いない。この流れの中で、補助金交付に辿り着いたことを、《声を挙げたことの成果》として誇る資格が、声を挙げてきた人々にはある。そうした人々の努力を称える意味で、まずは「よかった」と言いたい。

全額不交付のまま終わるよりは「よかった」と言える。ただ、この件は裁判になっていれば愛知県側が勝訴する見込みが高かった。裁判で正面から交付を「勝ち取る」ことと、今回のような形での解決と、どちらが良かったかは、受け取る者の立場によるだろう。

年度をまたぐ前に早期に交付決定を得られたことは、愛知県にとっても、また、次の「あいちトリエンナーレ」関係者にとっても、大きなメリットだったに違いない。そして、文化庁にしてみれば、裁判になれば、9月の「不交付決定」の決定プロセスが必ず裁判で問われることになるので、このことに触れずに解決できたことはメリットだっただろう。その意味で、政治的には賢い解決だったと言える。すでに多くの識者が評しているように、文化庁の面子を立てながら落としどころを示して解決に持ち込むという、《大人の解決》を図ったものと言えるだろう(ただしこれは、愛知県知事に対して何らかの圧力があったわけではなく、自発的に提案したものだ、ということを前提にして言えることである)。

しかし、公的助成の中での「芸術表現の自由」が確立しているとはとても言えない日本で、この決定が「芸術表現の自由」に資するものと言えるか、という視点から考えると、この決定――というより、この決定劇――は、決してハッピーエンドではない。

2019年12月24日記者クラブでの大村知事。「表現の自由」と「多様性」、「金は出しても口は出さない方針」を強く擁護していた。(YouTube 公開動画より)
2019年12月24日記者クラブでの大村知事。「表現の自由」と「多様性」、「金は出しても口は出さない方針」を強く擁護していた。(YouTube 公開動画より)

ハッピーエンドと言えない理由

まず、この「決定劇」は、芸術表現の自由を擁護するためのもの、あるいは、擁護につながるものと言えるだろうか。

違うのではないか。というのが筆者の考えである。

記者会見での大村知事の説明には、結果だけを伝える中身のない会見だったとの感想を漏らす人々もいる。たしかにそうである。しかし、面子を捨てて実をとる知恵、ときに鬼の顔で民衆の自由を擁護する姿勢は、本来であれば名宰相の器と言うべきである。

芸術祭開催期間中も、その後の会見でも、公権力の側に立つ自分が「検閲」にあたる行為を行うことを自制し、「表現の自由」への擁護と多様性社会の重要性を雄弁に語っていた知事を思い起こすと、この会見は対照的だった。その言葉のそっけなさは、何か不本意なものを腹の中に飲み込んでいる人物が「公式の席で愚痴は言うまい」「聞く耳のある者だけが何かを聞き取ってくれればよい」とでも言っているように感じられた。たとえば、昨年12月24日に記者クラブで行われた長時間の記者会見(YouTube上で公開されている――写真)での熱弁と比較すれば、その差は歴然としている。

3月23日の会見では、知恵を駆使して成果を勝ち取った者の誇らしさは感じられず、むしろ「芸術の自由」を守る仁王になり切れなかった者の「まあ、これで上出来ではないか」という諦観めいた感覚が漂っていたように見えてならないのである。

この決定劇を、シンボルをめぐる政治だったのだと見るならば、その要点は次の掛け合いに集約される。

・愛知県知事が、文化庁の言うとおりだという姿勢で詫び、「今後は連絡を密に」すると約束して、減額を申し出た。

・文化庁がこれを受け、愛知県が「今後の改善を表明したこと」に免じて、金を与え、円満に収めた。

「連絡を密に」、「改善」、との《掛け合い》を注意深く読んでみると、これは今後の「芸術表現の自由」にとって、必ずしも朗報とは言えないのではないか。これは、展示内容に関する事前報告を細部にわたって行う、という意味になるのかもしれず、そうなれば、現在その設置が発表されている「ひろしまトリエンナーレ」の事前検討委員会のような方式をよしとする合意がなされた、ということになるのかもしれない。

そうなると、芸術家側の自由度は、むしろ狭まる可能性がある。

ここでの「改善」に則った形での申請というのは今後どうなるのか、どのようなことをどこに書けば、(仮に申請者にも予想できなかった問題が起きたとき)、必要な記載がなされていたと見てもらえるのか。24日に行われたヒアリングでも、申請経験者からこうした質問が出たが、文化庁からの答えは「仮定の問題には答えられない。申請者から質問をしていただければ、ケースに応じて説明する」とのことだった。

この点については、公的助成の中での「芸術の自由」とはどういうことを言うのか、という問題を踏まえて理解する必要があるので、稿を改めて考察したい。

文化庁公開ホームページの一部。芸術祭は最重要項目だ。
文化庁公開ホームページの一部。芸術祭は最重要項目だ。

次に、決定手続きの不透明性の問題が、まったく払しょくされていない。

9月に発表された文化庁の不交付決定が、実質的には誰によってなされたのか。文化庁長官は形式的な立場にいただけで実際には意思決定に関与していないとも言われており、議事録もないとの回答となっている。文化庁は、訴訟になればそこを明るみに出さざるをえなくなるため、そこを回避するために一部交付という案に応じたのではないかとの見方が何人かの識者から出ているが、筆者も同感である。

もしもそのために文化庁と愛知県知事が「これで収めましょう」と合意したのであれば、この「政治的」決着は、憲法的見地からはマイナスである。文化庁は、訴訟が回避されたこととは別に、ことの経緯をもっと踏み込んで開示すべきである。

これも24日のヒアリングで、筆者を含め複数名から質問をしたが、答えは「経過は報道発表の通りです」とのことだった。報道発表の中に記載されている「経緯」には、決定プロセスのことはまったく書かれていない。

なぜ、決定プロセスの開示が重要なのか。この点についても、稿を改めて論じたい。

この決定劇については、多くの論者が、愛知県知事が「名(面子)を捨てて実をとった」と評しているのだが、金銭ではない何かが「実」であった場合には、見方は逆となる。もちろん、こうしたことには「表現の自由」を守りたいと考える当事者が声を挙げ続けることが大切である。その必要は、今回の決定劇で、収まるどころか、高まったと言えるだろう。(2020年3月27日 記)

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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