不適切表現において修復すべきものと塞ぐべきでないもの――漫画「島耕作」問題の教訓をどこに見るか
テーマ塞ぎ、ではなく
筆者のここしばらくの投稿論説について、「具体的な事件や人を連想させ、関係者のイメージを低下させる作品は多数発表されているが、なぜこの作品だけに固執するのか」というご意見を頂戴した。これに応える意味も含めて、この件の教訓が《テーマ塞ぎ》の方向に行かないように、説明を補いたい。
筆者は以前、漫画で日本国憲法の基本を解説する本の解説文を執筆するさいに、企画会議に出席させてもらったことがある。そこで憲法17条の「国家賠償」について理解してもらうための事例として、2001年の「ハンセン病国賠訴訟判決」を取り上げたらどうかと提案したが、出版社側から「それは絵に描くと必ず問題になるので漫画家に依頼できない」と言われ、諦めたことがある。これはもう30年も前の話で、これが映画『あん』が上映され高い評価を受けた後のことだったら、話は違っていたかもしれない。
今回のような不適切問題は、たしかに公表前に社内でチェックが機能することが必要ではあるのだが、このチェックがそうした《テーマ塞ぎ》の方向に向かってほしくない。一度こうしたアウト事例が出てしまったからといって、出版社や作家が問題を《辺野古基地問題》、《金銭授受のあるステルス表現問題》といったテーマで括って「そのテーマは扱えない」という禁忌にしてしまうと、今度は「表現の自由」に萎縮が生じ、それこそ社会全体の機会損失となってしまう。
たとえば前回の投稿で触れた「DAPPI」問題のように、ある表現活動について《政治的意図に基づく組織的な誹謗中傷活動の疑いがあることを告発したい》と考えた人々が、金銭授受や雇用関係の実態について根拠(裏づけ)を得た上でそのことを公共(社会全体)のために公表したり、これを告訴したことを公表したりした場合には、その表現には刑法230条の2のルールが適用され、名誉毀損には問われない。
これを参考にするならば、フィクションの中の表現で、名誉毀損には当たらないが問題となりそうな表現についても、公共の関心事についてそれなりの裏付けをもって社会に向けて告発したと言える表現ならば、不適切表現の疑いを受けても謝罪や修正削除をすべきではなく、むしろ「表現の自由」に徹する姿勢を示してほしいと、私見として思う。
海外のジャーナリストを描いた映画作品には、このことをテーマにした作品がかなりある。近年では、新聞記者が「裏取り作業」に心血を注ぐ過程を描いた映画『スポットライト 世紀のスクープ』(2016年)が参考になる。
今回の「島耕作」におけるセリフの問題は、漫画家と出版社が、こうした事実的な裏付け確認がないまま当該の発言をした、というところにある。この意味では、出版社の「お詫び」の内容が、《その話題に触れたこと》ではなく、「確認の取れていない伝聞」を「断定的な描写で描いたこと」について詫びるものとなっていたことは、正しい反省内容である。筆者としては、出版社や作家がこの件をきっかけとして《テーマ塞ぎ》の方向に向かうのでなく、「事実確認の必要な事項は事実確認をしっかりやろう」「事実確認の必要な事項について事実確認が取れないときは」というふうに、仕事の精度を上げる方向に向かってくれることを願っている。
エンタテイメント文化をめぐるダブルスタンダード
筆者の前回までの投稿については、「漫画のことなどで法学者が目くじらを立てて、執拗に何本も投稿するとは大人げない」という趣旨の意見・助言も、何人かの方からいただいた。投稿が複数になってしまったのは、必要な論点をカットせずに書いていったら2万字の論説になってしまったので、5000文字ずつに区切ってテーマごとに分けて投稿しているからである。
たしかにメディアの報道やプロとして仕事をしている言論人が、この漫画のセリフ一つに左右されるとは考えにくい。その意味で、今回の問題は、憲法学における「表現の自由」のメインテーマにはならないだろう。しかし、かつての「ニュース女子」放映やSNSインフルエンサーの揶揄投稿の例を見ても、こうしたものに影響を受ける人が相当数出てくるのが現実である。それを考えるならば、一般人の相当数がこの漫画のセリフになんらかの心理的影響を受ける可能性はある。そして民主主義の担い手(有権者)の大多数は、プロの言論人ではない一般人である。
筆者は30年以上前に同じ作家の「島耕作」シリーズの初期作品や『加治隆介の議』などを読んで感銘を受け、おそらく人格形成上、影響を受けている。さらに言えば、筆者の幼少期の人格形成に手塚治虫の漫画(テレビアニメ)が大きく影響していることは、筆者の両親が繰り返し苦笑まじりに指摘していた。「実の親の説教よりも、アニメの中でお茶の水先生がアトムに説教をするシーンをよほど真剣に聴いていた」と。だから、漫画というジャンルは瞬間的な娯楽として消費されるだけのもので、人の心理や人格形成そして社会プロセスに影響を与えることなどありえないものだ、だから法学者がその社会的影響について真剣に論じるのは大人げないことだとは、筆者は思わない。筆者以外にも、映画や漫画から社会問題に気づいたり、深い人生の洞察の入り口を見つけたりした人は多いのではないか。
このような場合に「◎◎程度のものを真剣に取り上げるなど…」という言い方で、議論することそのものの意義を否定する振る舞いは、さまざまなところで繰り返されてきた。とくに映画について考えてみるとわかりやすい。アメリカには1950年代ごろまで映画検閲があったが、これがなんとなくおこなわれなくなった後、作品を検閲するのではなく作り手や俳優の思想を調査して該当者を業界から追い出すという「レッドパージ」へと、なし崩し的に形を変えていった。
この時代、こうした検閲や人物調査をおこなう側の理由としては、映像表現が人心に与える影響力は深刻だ、という考え方があったわけだが、他方、こうした検閲や人物調査を問題視する発言に対しては《映画は大衆娯楽に過ぎず、「表現の自由」の理論をあてはめて論じる価値のある表現ジャンルではない》といった論調で、なんとなく低く扱われていた。ナチスドイツ時代の映画政策にも似た事情が見られる。当時のナチス政権は、政治的忠誠を誓った作家や俳優を起用して国策映画を制作し、一般国民からの支持を上げることに利用していたのだから、その政治的影響力と価値をたしかに認識していたはずなのだが、一方で法学の世界では、こうした統制や政治利用の問題を法的議論に乗せる議論が始まったのは、第二次世界大戦後になってのことである。それまでは、ドイツの著名な政治学者であり憲法学者であるカール・シュミットが、映画を価値の低い娯楽ジャンルと見て検閲を許す発言をしていた。
筆者は自身の肌感覚から、漫画やアニメ映画の社会的影響力はたしかにあると思っているのだが、この影響力の問題を社会的な論点または民主政治プロセスに関わる論点として取り上げようとしたとき、「そんなものに時間を割くのは大人げない」と助言されることには、映画をめぐるダブルスタンダード言説と似たものを感じる。
漫画文化を誇りたいからこそ
もちろん、漫画と報道と専門論文では、扱う情報の正確さについて課される倫理の度合いは違う。前回までで繰り返したとおり、出版については放送法に相当するような法令はない。また漫画表現に対して専門論文や専門調査報道に匹敵する正確さを求め、それに届かない作品を叩くのは酷というものだろう。今回の件はそういう意味での正確さを漫画に求めるという筋ではなく、実際に傷ついた人々が実在する、という筋でとらえるべきである。
とはいえ、漫画は、日本が世界に誇る文化ジャンルになった。この10年の「クールジャパン」政策で、日本の漫画やアニメ映画やゲームは、日本の魅力を代表する重要な文化芸術ジャンルとして、海外での認知度も高くなった。また大学にも漫画学科や漫画コースを置くところが増えた。漫画や映画、ゲーム作成に関わるクリエイターが大学で講義を担当したり、識者として社会的発言をしたりする場面は、多々ある。そうなると、それに伴って表現者の社会的責任も重くなっていると考えるべきだろう。この関心から、前回の投稿で取り上げた《ステルス表現》の問題を文化芸術領域でも起こりうることとして視野に入れる必要も高まっている。
私たちは、こうした問題が起きるたびに一つずつ《何が問題か》⇒《どういう修復が必要か》を論じ、乗り越えながら、しかしさまざまなテーマについての関心を塞ぐことなく、言論の営みを続けていければと思う。ある表現に問題ありと感じた人々の不適切批判と、それを受けた表現者との関係は、気づきを促す言論とそれを消化し乗り越える営為とを繰り返しながら一段ずつ上っていく螺旋階段のようなものではないかと思う。
漫画という表現ジャンルによって、人間の生死、国家と人間の関係、地質土壌と産業の関係、戦争と平和、安全保障といった重厚なテーマへの関心の扉が開かれるということは実際にある。そうしたことについて描き、学び、疑問に思ったり語ったりする自由は、けっして塞がれるべきではない。
末尾になったが、筆者は「社外取締役 島耕作」の問題となった回から、日本の土は石灰成分を多く含んでいるためセメント精製の観点からは上質な土であり、そのために日本のセメント産業は世界で屈指の質の高さを誇っている、ということを知った。日ごろそうした知識に触れることの少ない文系研究者の筆者は、漫画や映画からこうした専門外の知識を得ることを楽しみにしており、感謝もしている。だからこそ、今回の事例については、思想家J.S.ミルの姿勢に倣って、法律をもって義務づけるようなことは言えないが、漫画文化を愛する者の一人として忠告をさせていただく思いで、本稿を執筆した。