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「島耕作」における「日当アルバイト」発言を、民主主義のプロセスから考える

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
民主主義の中の言論は、すべての有権者にとって判断材料になりうる(写真:ロイター/アフロ)

民主主義を支える「表現の自由」

漫画「社外取締役 島耕作」モーニング46号の中のセリフが不適切表現であったことについて、筆者はYahoo!上に2本、論説を投稿した。

「フィクションの中のセリフが人を傷つけるとき―漫画「島耕作」問題を考える」(志田陽子、2024年10月22日投稿)

「漫画「島耕作」における「日当」表現  何が問題だったか――当事者性の観点から」(志田陽子、2024年10月24日投稿)

今回は、この表現が《なぜ問題か》を、民主過程の観点から考え、そこから《何を修復すべきなのか》につながる考察を目指したい。前提として、筆者の見解は、これは【法的に】謝罪や撤回や修正を強制すべき事例ではないが、【社会的には】謝罪など何らかの修復的な対応が必要な事例だった、というものである。

前回の投稿で、「日当アルバイト」という表現がその文脈から、ある市民活動当事者の実在性や動機、その発言の価値を疑わしいものとしてしまう効果を持ち、これが当事者の人格を傷つけるものとなっていた、ということを論じた。このことは、当事者だけでなく、社会の民主プロセス全体をも傷つける(すでに傷つけた)可能性がある。本稿ではこの観点から考察したいと思う。

「表現の自由」は個人の権利としての重要性とともに、民主主義を支えるもの・民主主義にとって不可欠の前提として重要なものである。とくに公共的な価値のある情報、とくに政治的論点となる社会問題を知らせる情報は、有権者にとっての判断材料となるので、民主主義にとって不可欠のものとして、その流通を塞ぐことなく、自由にすることが必要となる。これは人体に喩えれば血流と同じで、この血流がせき止められてしまうと、その社会は民主主義の名に値する判断・決定ができなくなってしまう。

       「表現の自由」「知る権利」と民主主義の関係の円環図(志田陽子作)
       「表現の自由」「知る権利」と民主主義の関係の円環図(志田陽子作)

憲法21条の「表現の自由」は、すべての表現について自由が確保されることを目指す議論なので、ある特定の人々の主張に特殊に肩入れすることはしない。しかし、ある人々またはある主張だけが発言機会を得ることができなかったり、不当に発言価値を低められていたりしているときには、この傾斜(不平等状態)を問題視し、その言論が「表現の自由」の保障を平等に享受できる道を考えるべきことになる。とくに民主主義の社会において、選挙のさいの関心事になりうる社会問題や政治課題については、この問題が強く意識されなくてはならない。今回の不適切表現は、選挙の直前のこのタイミングで、この問題を生じさせてしまったのではないか、と筆者は考えている。

民主主義にとっての機会損失

辺野古の軍用基地建設に反対する人々の活動は、「表現の自由」の保障を受ける「言論」と言える。漫画家と出版社に「表現の自由」があるのと同じく、辺野古問題についてデモ・集会などの形で発言をしようとする人々にも「表現の自由」があるので、「表現の自由」の話をするのであれば、その両者の「表現の自由」を視野に入れなくてはならない。

辺野古で抗議活動をする人々には、当初から嫌がらせがあったというが、「ニュー女子」の番組放映や著名インフルエンサーの揶揄発言などがあった直後にはこれがエスカレートしたということが報じられている。こうしたことで当事者の活動が困難になれば、狭い意味の当事者(前回の投稿で筆者が「当事者」とした人々)にとどまらず、社会の全体が、この問題について考える機会を失ってしまう。

また、具体的な妨害を受けなくても、《あるテーマ》で発言する人々の発言価値が低められてしまうことによって、社会全体からこれについて考える機会が奪われ、民主主義に歪みが生じることになる。

民主主義の担い手として社会問題や政治的争点について発言している人々について、《その表現活動には発言資格のある当事者が存在しない》とか《金銭授受を背景としたステルス表現だ》といった決めつけをおこなうことは、その活動や発言の民主プロセスにおける価値を貶めることになる、ということを前回の論説で述べた。このように冷笑やデマによって発言価値を貶められた市民の発言は、シリアスに考える必要のない話題として黙殺されがちになっていく。安全保障に関わる問題となれば、国民がさまざまな視点から必要な施策や問題点を洗い出して、当事者として考える必要のある問題なのだが、その判断材料の中に入るべきピースであるはずのものが、最初から《付き合う価値のないネタ》として扱われてしまい、これが当の社会の全体にとって深刻な機会損失になりうるのである。

もちろん、選挙における最終的な判断は、個々の有権者が各自でするものである。しかし、その判断に至るために必要な材料の一角に目隠しが施され、最初からバイアスがかかった中で判断をさせられる、という状態は、発言価値を貶められた当事者だけでなく、民主主義に参加している主権者全体を当事者とした《機会損失》となる。

前回の投稿で、筆者は、出版社が公表した「お詫び」が誰に対しておこなわれるべきものか、という話題に触れた。問題の表現が、狭い意味での「当事者」――辺野古基地建設に反対する意見表明をする市民活動の当事者――の評価と人格を傷つけるものにとどまっていると見た場合には、詫びるべき相手を「読者の皆さま」とすることは問題のずらしとなってしまう。出版社は、詫びるべき相手をこのように希薄化せずに、その対象となる人々のリスペクト修復の意味をこめて、その当事者を表すなんらかの宛名表現をすべきだっただろう。

しかし、この表現が影響する範囲は、狭い意味での当事者だけでなく、選挙を目前に控えてさまざまな論題について取捨選択をしている日本の有権者全体だ、と言うべきかもしれない。この意味では、出版社が出した「お詫び」も、このセリフによって傷ついたと感じる当事者だけでなく、このセリフを読んで「ふーん、なるほどね」とか「あ、やっぱりそうだったんだ」と思いながら読み流し、特段の意識なく影響を受けた人々のすべてに対しても、発するべきものだったことになる。

問題をこの深度・影響範囲でとらえるならばーー出版社と作家がこの問題をこの射程で認識していたのならばーー、出版社の「お詫び」の名宛人があのように広いものになっていたことは、正しいものとして評価できる。

民主主義にとってのステルス表現問題

ここまで筆者は、この《印象操作による機会損失》の問題を、表現者に印象操作の意図はなく不注意から生じたものであるという理解に立って、そうであってもこの事例は謝罪による印象修復を必要とするものだ、と論じてきた。しかし仮に、前回の投稿で指摘した「ステルスマーケティング」類似の問題がここに含まれているとしたら、問題はもう一段、深刻になる。

つまり、もしもこのセリフを漫画中に配置した作者に、辺野古の市民活動について発言価値を低める印象操作をおこなう意図があった、またはその意図を持つ一部の市民や企業または公職関係者に頼まれてこのセリフを入れたのだとしたら、考察すべき問題は《表現の自由と知る権利》の関係から見てもう一段、シリアスなものとなる。

この点では、弘兼氏が「防衛省広報アドバイザー」という立場にあることが、どうしても目にとまってしまう。今の段階では筆者には、点と点をつなぐ「線」について発言するだけの根拠がないため、作品中のセリフがどういう社会的効果をもたらすか、ということと、弘兼氏が「防衛省広報アドバイザー」であるという公開された事実情報との二つの点を「点」として述べることしかできない。これは「李下に冠を正さず」という格言が当たる事例なのかもしれない。しかし、もしもこの「線」について掘り下げた報道が出てくれば、それなりの観点からこの問題を考察すべきことになるかもしれない。

この問題関心からは、「DAPPI問題」というものが連想される。これはあるIT企業が運営する「DAPPI」というツイッター(現「X」)アカウントから国会議員への批判や誹謗中傷が多く行われていたが、訴訟と調査の過程でこのIT企業と特定政党(自由民主党)との繋がりが疑われた、というものである。DAPPIアカウントが発信していた内容は法的な意味で「名誉毀損」に該当するものであり、東京地裁は2023年10月、「投稿は会社の業務」と認め、このIT企業と代表に計220万円の賠償と投稿の削除を命じている。

今回の「島耕作」の中のセリフは、DAPPIが拡散した発言とは異なり、それ自体で名誉毀損にはならない内容だが、もしも根底にこれと同様の世論操作的な動機が存在したとすると、名誉毀損に当たるかどうかという問題とは別の《ステルス表現》の問題として、考察すべき問題となる。今の段階では筆者の側に「ここにはその問題がある」と述べるに足る根拠がないため、を参照しつつ、「仮にそうだとしたら問題はより深刻だ」ということと、「仮にこれが不注意によるものだとしたら不勉強と言わざるをえない」ということを述べるにとどめたい。

法的問題にならないからこそ

憲法の世界には「立憲主義」と「民主主義」という二つの足場がある。「人権侵害」と法的に言える事柄については、「多数決民主主義によっても奪えない権利」として、立憲主義の観点から救済がはかられる。そうした問題が裁判になれば、裁判所が解決のための判決や決定を出す。「法的問題」「法的責任」という言葉は、こうした問題場面で言われる。

これに対して、裁判所で判断するにはなじまず、有権者(主権者)が投票によって答えを出すべき問題がある。一般に「政治問題」とか「政治的責任」と呼ばれる。ある政策が国民にとって望ましい政策かどうかが論争になっているとき、その政策の推進者である議員や政党が選ばれるかどうか、といったことがこれに当たる。こうした事柄は、法(裁判)によって結論を出すのではなく、民主主義の中で国民が答えを出す問題だからこそ、その判断のプロセスが公正で平等なものであることが求められる。

選挙演説や選挙ビラ配りなど選挙活動そのものとなる言論には、公職選挙法や国家公務員法、地方公務員法などによってさまざまな規制があるが、それはこの公正性を確保するための規制である。戸別訪問の禁止など「その規制は本当に必要か?」と疑問視されている規制もあるが、それほどに、不正を防ぎ公正性を守ることは、民主主義をとる国と社会にとって、重大な関心事なのである。

一方で、一般人が政治的関心や主張を語る言論については、「言論の自由市場」を最大限に守ることが目指されているので、他者の権利を侵害する表現以外は、規制すべきではない。「民主主義のプロセスに歪みを生じさせていないか」と問うべき事柄があったとしても、「表現の自由」の観点からは、これをすぐに法的問題とすることは望ましくない。だからこそ、言論の自由の土俵で、その問題を指摘する言論が必要になってくるし、「この問題を意識してほしい」と出版社や報道メディアに呼びかける言論が必要になってくる。

このような呼びかけをメディアがどう受け止めるかも、法的には、当のメディアの良識に委ねられることになるのだが、この良識を守ることが表現者の自由を守ることにもつながる。

「表現の自由を野放しにしておくと一般市民にも害があるので市民のために規制が必要だ」との掛け声は、いろいろな出来事をきっかけにして、常に起きてきた。これに対して「法令遵守や市民社会を守るための良識は、メディア自身が守る」という自律の考え方がとられてきた。新聞・出版には、放送法のような真実報道ルールを課す法令はないが、良識的な言論・表現活動を維持するために、自己を律する努力が重ねられてきたし、今後もこれが問われ続ける。この努力を忘れると、「一般市民の権利擁護のために表現規制を」という議論が簡単に優勢になってくる。だから「表現の自由」を守るためにも――自分たちの首を絞めないためにも――人を不当に貶める表現を避けるよう、過去の裁判所の判断を学ぶなど、努力することが必要となるのである。筆者の論を、単なる非難の言としてではなく、その努力の一助にしてもらえることを願っている。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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